VOL.25

妻に恥じず子供に誇れる、
自分が理想とする医療を
後進とともに追求したいと願った

公益財団法人 東京都医療保険協会 練馬総合病院 
循環器内科 伊藤 鹿島氏(39歳)

長野県伊那市高遠町出身

1998年
聖マリアンナ医科大学卒業 東京都立大塚病院臨床研修医
2000年
東京都済生会中央病院循環器科
2003年
慶應義塾大学医学部東洋医学講座研究員を経て東京都立大塚病院内科(循環器)
2007年
野崎徳洲会病院循環器科医長
2009年
総合新川橋病院心臓血管センター Arkansas Heart Hospital(米国)で
冠動脈及び末梢血管に対するカテーテル手術のトレーニング
2011年
練馬総合病院循環器内科

幼少のころから病院通いをしていた伊藤鹿島氏。滲出性中耳炎を患っていた経験から耳鼻科医をめざすが、大学卒業後、多くの分野をローテートするうちに循環器内科の奥深さに触れ、専門に選択。以来、循環器内科医として研鑽を重ねていたが、教師である父の影響もあってか、あるとき、教育の重要性に気づく。「今までは懸命に自身の手技を磨いてきたが、これからは次世代に自分の得た知識を伝えるべきだ」。伊藤氏は、ともに情熱を交し合える若手医師への指導に力を注ぐようになっていく。練馬総合病院に入職した伊藤氏は「今の若者は熱い。彼らのやる気を確かな成長につなげるため、日々奮闘しています」と、晴れやかな笑顔を見せてくれた。

リクルートドクターズキャリア8月号掲載

BEFORE 転職前

自分に蓄積された技術を後進に伝えながら、
自分も成長していきたい

隣町まで病院通いした経験が医師を志すきっかけに

伊藤氏の病院通いは、よちよち歩きの2歳から始まる。耳管狭窄症から急性中耳炎を反復、いつしか滲出性中耳炎となり、1日おきに隣町の病院まで行くのが日課となっていた。

「私が育ったのは信州の高遠町という小さな田舎町。耳鼻科医は存在せず、約8000人の町民に対して内科医が1人か2人という状況でした。

隣町まで1時間かけて病院通いをする生活でしたが、物心もつかない私は当たり前の日常だと思っていました」

通院生活は長くつづき、やがて成長した伊藤氏は、そんな日々の中でひとつの決心をする。

「病院に行くと、待合室には不便を感じつつ遠方から通ってくる子どもたちが大勢います。私はハッとして思いました。『大きくなったら耳鼻科の医師になろう』と」

大学卒業後、研修経験を経て選んだのは循環器内科

医師を志し、上京して聖マリアンナ医科大学を卒業した伊藤氏は、多様な医療を学びたいと願い、スーパーローテーションの仕組みがまだなかった大学を飛び出し、より多くローテートできる病院を探す。行き着いた先は、東京都立大塚病院だった。

「現在のスーパーローテーションのような研修を2年間行い、さまざまな領域を学ぶうちに、いざという急場に強い循環器内科に惹かれるようになりました。当時の私がめざしていた医師像や、幼いころの夢とは違ってしまいましたが、どんな患者さんにも対応できる医師。今でもこの理想像は変わりません」

研修が終わり、伊藤氏は東京都済生会中央病院の循環器科に入職する。ジェネラルの上に立脚する専門医を推奨する同院のポリシーのもと、伊藤氏は一般内科と循環器科の患者を診つつ学びを深め、3年間の専修医を終える。

勉強熱心な伊藤氏は、次のステップに進むため自身には未知の分野の漢方の知識を得たいと願い、慶応義塾大学東洋医学講座(現漢方医学センター)の門をたたく。同医局人事により、かつて研修医としてすごした大塚病院の東洋医学科に着任。新たな領域に挑むが、同院では循環器内科医不足が生じており、結果、漢方と循環器内科の二足のわらじを履く日々が始まった。

ところが、循環器内科を手がけたことで、伊藤氏は「自分の医療は時代に取り残されているのではないか」との焦燥感に駆られるようになる。

カテーテル手術は日進月歩だが、自分の手技は昔のまま。逡巡していた矢先に伊藤氏は、件数もさることながらカテーテルの最先端技術を誇り世界に発信している、大阪の野崎徳洲会病院の心臓血管センター長と知り合う。伊藤氏が同院への赴任を決意したのは言うまでもない。

カテーテル手技をきわめる中後進の指導を切望する

野崎徳洲会病院でカテーテルの手技向上に励んでいた伊藤氏は、自身の手技をさらに生かすべく、2年後、神奈川県内の市中病院へ赴任。着々とキャリアを積み上げていく。

「その病院では、カテーテル手術の症例数を伸ばすことに専念していましたが、ふと、疑問を感じました。

おそらく、教職に就いていた父の影響でしょう。自分が得た経験や知識を後進に伝える義務があるとの考えが日々強くなっていきました」

再び思案する日々をすごす伊藤氏に、練馬総合病院で循環器内科医を探しているとの情報が入る。

同院へは研修医時代にアルバイトに出向いていた。伊藤氏の脳裏に、同院の真面目な気風と確かな診療体制の記憶がよみがえった。

「ここは臨床研修指定病院で、まさに自分のやりたい医療が実現できると確信。病院に打診したところ、『ぜひ』の歓迎の言葉をいただけました」

伊藤氏はさっそく、勤務条件の交渉を民間の斡旋会社に依頼した。

「私個人の交渉ではおそらく限界があったでしょう。病院との交渉に斡旋会社を介したことで負担は軽減され、すべてがスムーズに運びました」

AFTER 転職後

地域医療へさらなる貢献を果たすべく、
今は、若い情熱と向き合っている

若い医師のやる気に触れ、教育がライフワークに

2011年10月、伊藤氏は練馬総合病院に入職した。

「私が研修医時代に感じていた真面目な気質は当時のままであり、懐かしさと同時に練馬総合病院を好きだった自分を思い出しました。

思えば、私は今まで多くの医療機関に在籍しましたが、当院ほど自分の肌に合うと感じた施設はなかったかもしれません。

現在、研修医は5名。専修医、専修医を終えたばかりの医師も多く在籍し、若手パワーのやる気に圧倒されています」

これまで伊藤氏は臨床研修指定病院にいなかった時間も長く、教育に触れる機会に恵まれなかった。練馬総合病院で後進の指導をし、新たなやり甲斐に燃えているようだ。

「教育は、ライフワークのひとつ」と話す伊藤氏。実は、以前の病院を離れる直前、一瞬、開業することも頭をよぎったと言うが、それを思いとどまらせたのは、「たとえ大きくなくても、後進を育てる組織を立ち上げ成功させたい。やらないと一生、後悔する」という強い思いだった。

とは言うものの、「教育などと偉そうに聞こえますが、研修医たちから私が教わる部分のほうが多いかもしれません。当院の若手医師たちは皆、情熱にあふれています。指導しないことでも私の所作を見て感じとり、自ら学んでいく貪欲さがあります」

地域の要となれるよう真のセンター化をめざす

カテ中の伊藤氏。「研修医、専修医など若いドクターには積極的にカテーテル検査と手術に入っていただき、穿刺からカテーテル操作まで手とり足とり段階的に指導しています。将来、循環器を専門としないドクターほど、体験して理解を深めてほしいと考えています」
カテ中の伊藤氏。「研修医、専修医など若いドクターには積極的にカテーテル検査と手術に入っていただき、穿刺からカテーテル操作まで手とり足とり段階的に指導しています。将来、循環器を専門としないドクターほど、体験して理解を深めてほしいと考えています」

現在、同院の循環器内科の常勤は伊藤氏ひとり。2名の非常勤に助けられながら、診療に取り組んでいる。

「カテーテル件数は月50件ほど、冠動脈インターベーションは月に約10件、ほかに末梢血管疾患の治療が月に5~6件、ペースメーカーの埋め込みなども月に1件はあります。件数的にはまだまだ多いとは言えませんが、救急搬送や院内急変への対応、術前循環器依頼、外科周術期の管理を含めると、早くも常勤医師が私だけの体制では、手一杯になりつつあります。

加えて、周辺地域を見わたすと、24時間体制の循環器内科はきわめて少ないのが現状です。

今以上に地域に貢献するためにも、循環器のセンター化を速やかに整備する必要があるでしょう。そうした体制構築も、循環器内科を担う私の使命だと思っています」

多くの病院での研鑽を経て自らの理想を実現できる場にたどり着いた伊藤氏。しかし、どんな環境でも医師としてうれしい瞬間は同じだったと振り返る。「患者さんとの触れ合いの中で信頼関係ができ、経過を見守り、見届けることができ、患者さんの人生やドラマに触れられる―それ以上の喜びはないですね」。

毎日の指導を通じ、その感慨もまた、後進たちへ伝わっていくだろう。

WELCOME

転職先の病院からのメッセージ
公益財団法人東京都医療保健協会 練馬総合病院副院長 柳川達生氏

地域初の糖尿病学会認定教育施設に指定される

副院長を務める柳川達生氏が練馬総合病院に着任したのは1994年。

院長の飯田修平氏とともに長期にわたり地域に根ざす同院を見守りつづけ、さまざまな改革を推進している。

そのひとつが、柳川氏の専門でもあり、同院の強みである糖尿病診療の推進だ。

「当院は2007年、練馬区初の日本糖尿病学会認定教育施設に認定されました。同年は、当院が新築移転した年でもあり、糖尿病センターも開設。以来、より充実した糖尿病診療を目標に前進しつづけています」

練馬区内の糖尿病患者数は、予備軍を含めて推定約9万人。糖尿病診療を得手とする同院には、患者が多数集まり、中には合併症を発症している患者の来院も多く、循環器内科との連携が必須なケースが多数見られるという。

「糖尿病は、自覚症状がなくても、血糖コントロールが不良のまま数年経過してしまうと、網膜症、腎症、神経障害をはじめ、心筋梗塞や閉塞性動脈硬化症等の血管障害を中心とした合併症を生じます。

合併症への対応のため、循環器内科の常勤医を切望していましたが、多くの循環器内科医は専門以外の疾患は診ない傾向にあり、希望する人材を見出せずにいました」

伊藤氏から入職希望の連絡を受けたのは、そうした時期。「文字どおり、雨過天晴のようだった」と、柳川氏はうれしそうに笑う。

「伊藤先生はジェネラルを踏まえた専門医ですから、循環器内科をメインにしつつ一般内科も診られる医師です。当院がまさに必要とする人材の理想形であり、実際に仕事ぶりも優秀ですばらしく、伊藤先生の着任に心から感謝しています」

臨床と研究の視点を持つ若手医師の育成に注力する

伊藤氏が述べたように、循環器内科の常勤ひとり体制が厳しくなりつつある状況は、柳川氏も重々承知している。「当院の強みをさらに発展させるには、せめてもうひとり、伊藤先生と同じく骨太な診療スタイルの循環器内科医が必要。伊藤先生と馬が合う若手医師を募集中です」。

臨床研修指定病院である同院では、臨床と同時に研究マインドも鍛える教育を実践している。

「多くの手技体験はもちろんですが、初期研修医にも論文発表を推奨しています。学会報告件数が多いのも、当院の特筆すべき点でしょう」

多くの若手医師の中から、学術に長け地域医療に取り組む医師をひとりでも輩出できれば、と柳川氏。

「現在の当院には伊藤先生を筆頭に、指導に熱心な医師たちがそろっています。ソフトの部分は安心して任せられますので、私がことさら何かをする必要はありません(笑)。その分、人材確保を含め当院のインフラ面の充実に注力していく覚悟です」

柳川 達生氏

柳川 達生
公益財団法人 東京都医療保険協会 練馬総合病院 副院長
1982年慶應義塾大学医学部卒、同年慶應義塾大学医学部内科学教室に入局。84年社会保険埼玉中央病院内科、86年慶應義塾大学医学部腎内分泌内科を経て、91年米国シカゴ大学内科に留学。94年に帰国後、練馬総合病院内科に着任。2003年9月から現職。

公益財団法人 東京都医療保険協会 練馬総合病院

同院の歴史は古く、1948年、戦後の荒廃の中、地域に良い病院をと願う地域住民の情熱によって設立。名実ともに、「地域住民による、地域住民のための、地域の病院」と言える。1991年、院長に飯田修平氏が就任したのを機に組織改革がスタート。「職員が働きたい、働いて良かった、患者さんがかかりたい、かかって良かった、と言える医療を行う」を理念として全職員に明示。より良い医療の仕組みの構築と医療の質向上に努めつづけている。2007年、現在の敷地に新築移転。

公益財団法人 東京都医療保険協会 練馬総合病院

正式名称 公益財団法人 東京都医療保険協会 練馬総合病院
所在地 東京都練馬区旭丘1-24-1
設立年月日 1948年3月15日
診療科目 内科、小児科、外科、整形外科、
脳神経外科、皮膚科、泌尿器科、産婦人科、
眼科、漢方内科、循環器内科、放射線科、
リハビリテーション科、麻酔科
病床数 224床(一般病床)
常勤医師数 38人(うち研修医5人)
非常勤医師数 31人
外来患者数 499人(1日平均)
入院患者数 181人(1日平均)