タイミング:ステージA(卒後3~6年、27~30歳)

case01

ひとりレジデントでバーンアウト寸前新天地で医師としての自信を取り戻し

[キーワード]後期研修先の変更

(20代後半・男性)

診療科 消化器外科 → 消化器外科
勤務地 東京都 → 埼玉県
施設形態 一般病院 → 一般病院
年収 1,000万円 → 1,100万円

後期研修は一人で患者と向き合う経験を積みながら、自信を深めていく段階。しかしそれ以前に、人への不信感と治療への不安で押しつぶされそうになってしまったのがA氏だ。大学病院で初期研修を終えたA氏は、もっと症例を積みたいと考え、地域医療の中核病院を研修先に選んだ。50代の部長のほかにオペ盛りの40代の担当部長、主任医長、医長の3名。意欲に燃えての入職だった。
しかし指導医は多忙を極めており、症例や疾患に関する相談をしても、まともに応えてもらえない。A氏の治療判断はコメディカル経由で報告があがり、問題があると見れば厳しい叱責と罵倒が待っていた。書類を投げつけられ、ネームプレートを外されゴミ箱へ捨てられたこともあったという。ピリピリする雰囲気の中、レジデントはA氏ひとり。当直の交代を押しつけられることも多く、非常勤医とほぼ交代で月10日以上の当直をこなしていたが、自信を失ってしまったA氏は当直中に手に負えない患者がきたらどうしようと心配で、次第に眠れなくなっていった。このままでは自分がつぶれてしまうと、ついには転職を決意。
後期研修での途中脱落を「人生最初の挫折」と落ち込んでいたA氏だが、登録した転職会社のCAから、同じ専門医を取るための研修先として幅広い選択肢を提示され、追い詰められていた気持ちが軽くなったという。「CAの方が、医局の雰囲気や人数と年齢構成、指導医の出身大学や得意領域なども丁寧に教えてくれました。むろん、当直日数や休日が取得できるかまで教えてくれて、驚くやら安心するやら」と笑顔で話すA氏。新しい研修先では同世代の医師らに囲まれ、厳しいながらも明るい指導医のもとで精力的に臨床に従事している。当直も月5回という約束が守られ、心身ともに充実した環境が手に入った。

case02

研修中妊娠。ブランクを経て自分のやりたいことにチャレンジ

[キーワード]研修後のブランク・妊娠

(20代後半・女性)

診療科 無所属 → 内科(糖尿病・代謝科)
勤務地 岡山県 → 兵庫県
施設形態 一般病院 → 一般病院
年収 380万円 → 700万円

後期研修先選びは①医局からの紹介、②初期研修先に残る、③希望の科に力を入れている施設を選ぶなどの選択肢があるが、希望の科を絞り込めずにいたB氏の場合、「何を手掛かりにしたらいいのか分からない」と途方に暮れて転職会社に登録した。
B氏は、初期研修の2年目に妊娠。研修先のレジデント仲間や指導医に助けられ、何とか研修を終えたものの、研修の後半は「体調的にも集中できる状況ではなかった」。無事、出産を終え数カ月のブランクを経て、後期研修先を選ぶに当たって、これからの自分の方向性、進みたい診療科を思い描けないことに気付いた。そこで転職会社のCAに相談。言葉にすることで次第に「漠然としていた将来設計や、自分の希望する医療との向き合い方を具体化できました」(B氏)。患者と長いスパンで向き合え、患者数が増加の一途である糖尿病の専門医取得を目標に定めた。しかも「万が一、方向転換したくなった時にも身動きが取れるように」(担当CA)との配慮から、紹介されたのは専門医が取得可能で、他科との連携も円滑な総合病院。来年4月の入職が決まったという。

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タイミング:ステージB(卒後7~14年、31~38歳)

case03

研究より臨床に魅力を感じ臨床で存分に活躍できる場を求めて

[キーワード]退局・症例を増やしたい

(30代前半・男性)

診療科 循環器内科 → 循環器内科
勤務地 東京都 → 神奈川県
施設形態 大学関連病院 → 公立病院
年収 1,200万円 → 1,200万円

大学医局に所属する医師にとって、このまま研究も続けるか、臨床に絞るか、の選択は迷いどころだ。C氏は医局関連の急性期病院に勤務していた。「学会発表を奨励し、症例研究も盛んで活力ある病院でした」と振り返る。しかし患者数も多く当直は週1回以上、加えて研究や論文の準備に追われて勤務時間が深夜に及ぶ毎日。そんななか「研究も大切ですが、自分は臨床指向だと悟りました。もっともっと症例を積みたい、患者の治療に集中し、自らの腕を上げたい、という思いが強くなりました」とC氏。専門医も取得した今が好機と、医局を離れることを決めた。
転職会社には、第一に臨床に集中できること、第二にプライベートな時間が取れることと、優先順位をつけて希望条件を明示した。
「患者数が多く、さらに診療科の医師の年齢構成の観点からも、C先生が多くの症例に当たれる施設をピックアップしました。そのなかでもっとも先生の希望に合う施設を選び、当直回数は月2回以内など、条件を具体的にして病院と交渉しました」(担当CA)。
面接時には事前に必要な情報のほとんどが明確になっていたため、院長と院内の雰囲気を実際に確かめて入職を即決。C氏は症例が格段に増え「毎日、自分の成長を感じ、自分が医療の現場で役に立っている実感を得て仕事に臨めています」と現在の満足を語る。

case04

子どもの誕生を機にメリハリのある働き方
週4日勤務で1,500万円を実現

[キーワード]プライベート優先・年収アップ

(30代後半・男性)

診療科 内科 → 内科
勤務地 大阪府 → 新潟県
施設形態 一般病院 → 一般病院
年収 1,200万円 → 1,500万円

D氏が転職を決めたのは「子どもが3歳になるまで、自分もしっかり育児に関わりたい」という理由からだった。
医師は学修期間が長く、仕事に就いてからも忙しいため、家庭や子どもをもつのは遅くなることが多い。D氏も第一子を授かったのは38歳のときだった。「子どもが親を最も必要とする時期は短いですから、41歳までの3年間を家族優先で過ごそうと決めました」。これまで内科医として救急外来も精力的にこなし、仕事第一でハードに働いてきたD氏の決意は固かった。
一方で、子どもが成人するまでに、まだ20年あることを思うと、単に仕事量をセーブして年収を下げるわけにはいかない。転職のために出した条件は、週4日勤務で当直なし、年収は1,500万円以上というものだった。
一見無謀ともいえる条件だが「(そのかわり)週4日の勤務日は、残業も厭わずめいっぱい働く、勤務地はこだわらない、など譲歩できる条件も示してくださったので、施設側と交渉できました」と担当CA。医師不足で補充を急いでいる病院、内科体制の強化を図っている病院など、日ごろからの独自の施設情報網から候補をピックアップ。週4日の勤務日は当直医の入り時刻を遅くして引き継ぎまでを受け持つ、等の条件で、今回の条件を満たす施設を発掘、入職につなげた。今、D氏はオン・オフのメリハリも明確に、子どもと過ごす週3日のオフ日を満喫している。

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タイミング:ステージC(卒後15~21年、39~45歳)

case05

遠方の関連病院への異動を機に転職を決意。
希望通りの生活を手にいれる

[キーワード]定住・退局

(40代前半・男性)

診療科 整形外科 → 整形外科
勤務地 北海道 → 石川県
施設形態 大学関連病院 → 一般病院
年収 1,200万円 → 1,400万円

地方の国立大学の医局に所属し、各地での医療を経験してきたE氏。「数年ごとのローテーション人事でしたが、おかげさまで多くの経験を積み、さまざまな医師の技術を目の当たりにし、技術的にも人間的にも多くを学びました」と述懐する。一方、関連病院への赴任は転居を伴うことも何度かあった。待遇も、基本的に所属先に準ずるため変動はあった。今回、医局から提示された異動先は年収が200万円ダウンするという。施設をかわる度に一から人間関係を築くことも負担に感じはじめていたE氏は、ついに退局を決めた。そこには奥様への思いもあった。E氏は夫婦二人暮らし。「15年間、一緒に引っ越してくれた妻に、ひとつの場所で、落ち着いた暮らしをさせてあげたい」というのがE氏の希望だった。
条件は①年収は現状維持(以上)、②当直は月3回以内、③奥様が気に入る土地であること。「具体的なエリア指定があったわけではないので、ご希望の地域性を把握するのに多少時間がかかりましたが、その都度ご夫妻で現地に足を運んでくださったので、助かりました」と担当CA。
「年収は医局の提示先に行けば200万円下がるはずだったので、実質的に400万円増。生活や時間にゆとりが生まれ、結果的に患者にもより深くアプローチできるようになったと感じています」

case06

教授選で、自分が所属する派閥が敗北
非公開求人の新設クリニックで院長

[キーワード]教授戦・クリニック経営

(40代前半・男性)

診療科 泌尿器科 → 泌尿器科
勤務地 東京都 → 東京都
施設形態 大学病院 → クリニック
年収 1,300万円 → 1,500万円

教授選の結果は大学医局の人事に大きく影響する。大学で准教授になったばかりのF氏は、自らが所属する派閥のボスが教授選に敗れた直後に市中病院への派遣が決まった。「規模の大きい病院で、むしろ厚遇だったと思います。ただ、泌尿器科自体は小規模なところでした」。すでに救急はやりつくしたという思いでいたF氏は、このまま残るよりも心機一転したいと、転職会社に登録した。
紹介されたのが、都心の新設クリニックの院長職だった。
「機材やスタッフ選びについても希望を聞いてくれるなど、まったく新しい環境に心が浮き立ちました。ただこれまで医局以外を知らずにきたので、契約の段階で『管理医師』という立場に、急に不安を感じたのも事実です。しかし、転職会社のCAさんから十分な説明を受け、また事務長から『これが人生最後の転職と決まったわけではありません。先生が合えばずっと続けていただき、合わなければそのとき判断してくださればいいですよ』と言ってもらい、前に踏み出せました」。
今、F氏は地域のニーズに合わせた診察時間の変更や地域での勉強会の実施など、新たなアイデアで順調に患者数を増やしている。「自分の工夫がダイレクトに結果に出ますし、病院運営の面白さを味わっています。自画自賛ですが、自分にこんな才能があるなんて思ってもみませんでした」と笑顔をみせる。

ステージC(卒後15~21年、39~45歳)のキャリアプランについて、詳細はこちら

タイミング:ステージD(卒後22~31年、46~55歳)

case07

子どもたちの夢をかなえるために年収を最優先にキャリアチェンジ

[キーワード]スピード転職・年収アップ

(40代後半・男性)

診療科 循環器内科 → 循環器内科
勤務地 神奈川県 → 神奈川県
施設形態 一般病院 → 在宅クリニック
年収 1,450万円 → 2,000万円(+α)

開業医にとって継承は大きな問題だが、勤務医家庭の場合、必ずしも子どもを医者にすることを前提としてはいないようだ。G氏の場合も「私自身、一般家庭で育ったので、子どもたちも自分の進みたい道を行けばいいと思っていました」という。
しかし長男だけでなく、次男も医学部に進学したいと言い出した時点で、状況は大きく変わった。
「私立医大なら6年間で最低でも2,500万円は必要ですから青くなりました。また、一番上は娘ですが、幼少時からピアノが大好きで音大志望。欧州に音楽留学を希望しています。この金銭的負担も半端ない。とにかく、早急に年収を上げる必要があったのです」。G氏は勤務していた市中病院に退職願いを出して有給消化に入ると同時に、ネット検索で情報を収集、転職会社に登録して転職活動を開始した。「私の必死さが伝わったのでしょう。転職会社の対応は早く、面談してから2日後には希望年収ゾーンの求人をいくつか提示してくれました」。
決定したのは自宅から車で30分の在宅クリニック。週5日勤務で、オンコール対応すれば手当が追加される。地域の中核病院と連携もしている。面接設定も条件調整がスムーズでスピーディーだったので、「有給休暇を消化しきらないうちに入職が決まりました」(G氏)。40%近い年収アップを実現し、G氏は大いに満足している。

ステージD(卒後22~31年、46~55歳)のキャリアプランについて、詳細はこちら

タイミング:ステージE(卒後32年以降、56歳~)

case08

年齢的にも「最後の転職」は実家から通える施設で地元に貢献

[キーワード]Uターン転職

(50代後半・男性)

診療科 内科 → 内科
勤務地 千葉県 → 長野県
施設形態 老健施設長 → 老健施設長
年収 1,300万円 → 1,300万円

キャリアチェンジのタイミングは、人それぞれだ。H氏の場合は、50歳のとき軽い脳梗塞を起こしたことがきっかけになった。長く出身大学の医療圏で脳外科医として現場で活躍してきたH氏いわく「まさに紺屋の白袴です。医師を長く続けるためにも、キャリアチェンジしてペースダウンする時だと感じました」。さっそく医師仲間の人脈を生かして老健施設に入職。入所者の回診や診療など、施設長の仕事を5年間、務めた。
しかし「里心がついたというのでしょうか。親の年齢も考えると、やはり、最後は地元に戻って地域医療に貢献したいという思いが日増しに強くなっていきました」。転職会社の紹介でH氏が決めた施設は、実家から車で10分ほどの場所にある老健。「うれしかったのは病院とのつながりまで考慮して、施設を紹介いただけたことです。これまでは医局のつながりで、後方病院と何とか連携を図っていましたが、もともとの専門が脳外のため、内科疾患については少なからずプレッシャーを感じていました。今回の施設は病院併設なので、万が一のときも対応は万全です。私自身も入所者にとっても負担が少なく、ほっとしています。ここなら末長く続けられそうです」

ステージE(卒後32年以降、56歳~)のキャリアプランについて、詳細はこちら

タイミング:ステージF(女性医師、27歳~39歳)

case09

出産・育児の期間を見据え数年後には再び戻れる道を開拓

[キーワード]妊活・非常勤勤務

(30代後半・女性)

診療科 救急科 → リハビリテーション科
勤務地 福岡県 → 福岡県
施設形態 一般病院 → 一般病院
年収 1,050万円 → 1,200万円

結婚・出産等のイベントは、女性医師にとってキャリアの決断を迫られる局面でもある。一般病院の救急で活躍するI氏が転職会社に登録したきっかけは“妊活”のため。「結婚が決まったばかりでしたが、年齢的にも早々に子どもが欲しいと思いました。今の病院は3次救急まであり、やりがいも感じていましたが、月の当直が平均8回以上という環境では、妊娠・出産・育児は厳しい。疲労のあまり、病院から徒歩10分かからない自宅までタクシーを使ったこともありました。いずれキャリアチェンジするなら“今でしょ”と考えました」(I氏)。
将来、子どもから手が離れたら、そのときは再び救急に戻りたい、という、I氏の真摯な想いを聞き、あきらめなかったのは転職会社の担当CAの方だった。「救急科を標榜していないものの、幅広く診られる先生を求めている施設を探し出して、将来の産休の可能性も伝えたうえで、週4日で交渉しました。残り1日を以前からの病院へ非常勤で行くというセットメニューにすることで、ブランクを作ったり、スキルを落としたりすることなく、病院との関係も継続できます」。救急科に戻れる道筋を残しておける働き方の提案だった。
担当CAは言う。「産休に入る可能性があるなど転職に不利と思われることも、最初にお話しいただければ、一緒に解決策を探ることができます。すべては話していただくことから始まります」

case10

将来を考えて、転科を決断 仕事もプライベートも充実した生活

[キーワード]転科・体力の衰え・婚活

(30代後半・女性)

診療科 整形外科 → 産業医
勤務地 東京都 → 東京都
施設形態 一般病院 → 企業
年収 1,200万円 → 1,250万円

整形外科医として精力的にオペをこなしてきたJ氏。40歳も間近になって体力的にきついと感じるようになったのと同時に、このまま一人の生活を続けていくのか自問し、婚活する時間が必要だと考えた。加えて興味をもつ医療分野にも変化があった。
「外科的な面白さよりも、自分が介在しコミュニケーションをとることで、患者をよりよい方向に導くことに関心が向いていった」というJ氏は、産業医への転身を模索。しかしネットで情報検索しても先輩医師の伝手をたどっても手がかりすらつかめず、転職会社でも同じではと思いつつ、登録した。
産業医の求人は、通常の医療施設に比べると多くはない。人気があるため未経験者には狭き門。加えて整形外科からの転身はあまり一般的ではない。しかし、担当CAは言う。「お話をさせていただき、先生のお気持ちもお人柄も産業医に向いていらっしゃると感じました。整形外科をしてこられたことが、プラスに働く場所もあるはずと思ったのです」。時間をかけて“外傷も診られる産業医”を求めていた企業を探し当て、マッチング。産業医として入職を果たした。
J氏は「“企業所属の家庭医”という役割に、大きなやりがいを感じています。20年間途絶えていたピアノに向かう時間も持てるようになったんですよ」と笑顔いっぱいで語ってくれた。

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