VOL.52

定年を機に、急性期病院から
高齢者中心の療養型病院へ。
無理なく、やりがいある医療を追求。

総泉病院 内科 内田 潤氏(62歳)

富山県出身

1978年
昭和大学医学部卒業、同大学第一内科入局
1983年
昭和大学大学院修了、医学博士号取得
1984年
昭和大学第一内科助手
米国コネチカット大学医学部病理学教室留学
1987年
昭和大学第一内科助手
1988年
山梨赤十字病院内科部長
1991年
昭和大学腎臓内科兼任講師
1992年
順天堂大学消化器内科入局、石川島記念病院(旧IHI東京病院)
2015年
総泉病院

もともと腎臓内科が専門だった内田潤氏は、研究中心の時期を経て臨床医になった。その後、消化器内科の医局に移り、幅広い診療を行ってきた。しかし、人員削減による激務と、ペーパーワークの増加に、体は疲弊していた。60歳の定年退職を機にキャリアチェンジ。オンとオフの明確な病院で、本当に自分が行いたい医療に挑戦している。

リクルートドクターズキャリア8月号掲載

BEFORE 転職前

1件目に紹介された病院に
迷うことなく転職。決め手は
病院理念と職員の表情だった

管理職としての業務が多く臨床の腕が落ちることを懸念

定年後の時間を、医師としてどう充実させるか。一定の年齢を超えると、頭をよぎるテーマである。総泉病院の内田潤氏は、キャリアチェンジによって、やりがいのある仕事に打ち込んでいる。

1978年に昭和大学医学部を卒業後、しばらくは研究を中心に研鑽を積んできた。腎臓内科が専門で、博士号を取得後、米国コネチカット大学に留学。渡米から3年後に、34歳で帰国した。

「30代のうちに研究業績を残したいと思っていました。しかし実際には難しく、一方で臨床への関心が強くなっていました。今思えば、最初の転機でしたね」

以降は、臨床一筋でキャリアを重ねてきた。大学に戻って助手を務めたのち、医局人事で山梨赤十字病院に赴任。河口湖近辺の救急医療を一手に担う病院で、患者層は幅広い。専門外の疾患も診なくてはならなかった。「軽い腎臓病から呼吸器疾患、消化器疾患、時には小児の疾患も診ました。先に勤務していた若く優秀な医師にレクチャーしてもらい、総合的な診療技術を身につけました。特に、消化器疾患の診療に関心を持ちました」

しばらくは、臨床に専念できた。しかし、やがて病院が建て替えられて医師が増え、管理職としての仕事が増えた。「通常業務に加え、10人ほどの医師を束ねる管理業務が重なり、臨床医としての腕が落ちることが心配でした」

患者の急変などがあればすぐに呼び出され、体力的にも限界に近い。当時、子どもが生まれたばかりだったが、父親の役割を果たせないことも歯がゆかった。92年、二度目の転機の到来である。「順天堂大学の消化器内科医だった兄に相談しました。その頃、父が体調を崩したため、兄が富山の実家に帰り、私が東京に移ることになりました。順天堂大学の面接を受け、無給医局員として消化器内科に入局させてもらいました」

同大学からの派遣で、石川島記念病院(旧:IHI東京病院)に赴任した。ここは前職場ほど激務ではなく、余裕を持って勤務することができる。念願だった家族とすごす時間も実現した。

60代は、自分に見合った新しい医療に挑戦したい

ところが4~5年がたった頃、大学の人員不足により、医局員が引き揚げられた。内田氏はそのまま残る選択をしたが、頼りにしていた同僚医師2人が退職し、一時は常勤内科医が2人の状況に追い込まれた。自宅は病院から徒歩5分だったこともあり、頻繁に呼び出される。加えて、運営母体の健康保険組合が経営不振に陥り、病院側から診療の収益性を求められるようになった。
「平日は23時すぎまで仕事をし、正月も休めないこともありました。また、ペーパーワークをサポートするスタッフがおらず、介護保険や生命保険の書類、レセプトの症状詳記など、すべて自分で記載していました。患者から信頼されて診療するのは医師冥利に尽きるのですが、当時は50代後半で体力的に無理がありました。60代は、自分に見合った新しい医療に挑戦したいと思いました」

2014年、60歳で定年退職。その後、1年契約で在籍しながら、転職活動を始めた。医師紹介会社を利用し、オン・オフの切り替えが明確な病院を探した。総泉病院は、1件目に紹介された施設である。一目惚れに近かった。「病院の玄関に入った時、患者や家族が非常に穏やかな雰囲気だったことを覚えています。事務スタッフは、私のことを知らないはずなのに、きちんとあいさつしてくれました。職員が非常に生き生きとした表情で仕事をしている様子が、印象に強く残っています。また、院長の大坊昌史先生は順天堂大学の出身で、共通の知人が何人もいて話が盛り上がりました」

病院の理念にも引きつけられた。総泉病院では、87年の開設以来、ずっと「良質な慢性期医療の提供がわたしたちの使命です」を理念に掲げている。「あのバブル期に、現在の超高齢社会を見据えて病院を造る。その発想に驚きました」

入職を迷う理由は何もなかった。15年4月、60歳からの新たな挑戦をスタートさせた。

AFTER 転職後

高齢者医療を体系化し、
その魅力とやりがいを
発信する医師になりたい

複数疾患を持つ高齢者には教科書の枠を超えた医療が必要

内田氏が自宅を出て、豊かな緑と木漏れ日を感じながらバスに乗ること30分。高台にある総泉病院に到着すると、季節の草花に彩られた庭園が出迎える。毎日見ても飽きない、お気に入りの景色だ。「私は富山の出身で、もともと都会よりも自然の多い環境が好きなんです。この庭園は、入職を決めた理由の一つでもありますね」

毎朝8時15分に出勤し、カルテを見て、回診をする。スタッフに指示を出し、具合の悪い患者がいたら処置をする。患者の7割は高齢者で、慢性疾患が多い。長年、急性期医療に従事していた内田氏だが、今、高齢者医療に新しいやりがいを感じている。「高齢者は、複数疾患を抱えていて、治療の許容範囲が狭い。どのように優先順位をつけて治療をするかを考えなくてはなりません。服薬中の薬や過去の病歴、その方のバックグラウンドなどを見て判断するわけですが、一人ひとりが大きく違います。教科書の枠を超えた医療が必要なのです。ある意味で、まったく未知の世界ですから、非常に頭を使います」

以前から関心がありながらも、時間がなくて実践できなかった領域にも、挑戦できるようになった。「かねて嚥下機能の評価や訓練に興味があり、書籍を買い込んでいました。しかし、なかなか勉強する時間が取れず、そのままになっていたのです。当院には、嚥下機能の専門医が在籍しますから、レントゲンを使った評価方法や、実際の訓練方法などを教えてもらっています。また、言語聴覚士もいるので、質の高い嚥下リハビリを提供できています」

スタッフの優秀さは、ほかの場面でも多々感じられると言う。「例えば、感染対策委員会を開く時、知識の豊富な看護師が資料を作り、スムーズに会が進行します。以前、勤務した病院でも感染対策委員長を務めてきましたが、毎回、資料の作成が大変でした。今は非常に助かっています」

日常のペーパーワークの負担も、大幅に軽減された。これまで時間を割いていたカルテ管理などは、事務スタッフが代行してくれる。

また、内田氏が総泉病院に入職して驚いたことがある。身体抑制をしない医療の実践だ。「急性期病院ではミトンの装着などが行われていましたから、実は、抑制をしないなど、夢物語ではないかと思っていました。しかし、当院では本当に抑制をほとんどしていないのです。患者が胃ろうや点滴を抜いてしまっても、再び入れる。それを丁寧に繰り返すのです。看護師やコメディカルが高齢者医療に誇りを持って働いていることが伝わってきます」

専門外の疾患を診ない医療では超高齢社会を乗り越えられない

なお、夕方は18時すぎに帰宅でき、体力的に無理はない。週1回、以前、勤務していた病院に非常勤勤務をしているが、当時の同僚からは「10歳ぐらい若返ったんじゃないですか」と言われるそうだ。「今はオンとオフのメリハリがあり、リラックスして仕事ができているからでしょう」

これからの日本は、世界も経験したことのない超高齢社会に向かう。内田氏の転職は、時代の変化を見据えた選択でもあった。「消化器内科医だからといって、ほかの病気を診ないような医療では、立ちゆかなくなるでしょう。多くの医師は、総合的な診療ができるようになる必要があると、ずっと考えてきました」

転職から2ヵ月。今はこうした目標を胸にする。「高齢者医療のやりがいを伝えられる医師になりたい。高齢者一人ひとりに対応法が違うことを体系化し、より深めたいですね。まだまだ医師として学ぶべきことがたくさんあります」

WELCOME

転職先の病院からのメッセージ
緑豊かな環境で、無理のない勤務

総合的な診療能力と治療計画、円滑なコミュニケーションが大事

総泉病院は、医師がゆとりを持って働ける病院だ。常勤医はいわゆる9時~17時勤務で、当直も絶対ではない。受け持ち患者数は、無理のない範囲にとどめている。

院長の大坊昌史氏はこう語る。「多くの療養型病院は、1人の医師に40人以上の患者を受け持ってもらうようです。しかし、当院は少しゆとりを持ち、35~36人を目標としています」

最近は、がんの末期の患者や、急性期病院に入院したものの、積極的な治療は難しい患者などが中心となっている。「比較的、医療的な介入が必要な患者が多く、臨床医にとってのモチベーション維持の要因にもなっていると思います」

内田氏の印象については、こう感じている。「急性期病院で幅広い経験を積んできたためか、総合的な診療ができ、的確な治療計画を立てられる医師です。また、患者への説明能力が非常に高く、車いすの患者と話す時は、ひざをついて目線を合わせています。すでによい評判が聞こえています」

高齢者を中心とした療養型病院にとって、総合的な診療に基づく治療計画の決定と、円滑なコミュニケーションは極めて重要なスキルだ。

病院としては、今年、医療機能評価の認定を更新する予定だ。「医療の質や安全性、療養環境などを客観的に評価してもらい、患者や地域住民にとってより信頼できる病院になりたいと考えています。また、職員がいっそう安心して仕事ができる病院であることを目指します」

総泉病院は、療養環境のよさに定評がある。広い庭園には、池や水車小屋まで備わり、常に手入れが行き届いている。「もともとは、患者や家族に心地よくすごしてもらうための庭園ですが、職員たちも昼休みに散歩することが多いんですよ」

豊かな環境で、高齢者に質の高い医療を提供する。穏やかかつ、医師としての診療意欲も満たしてくれる病院である。

大坊 昌史氏

大坊 昌史
総泉病院 院長
1979年順天堂大学医学部卒業。同年、同大学消化器・一般外科学講座入局。91年加曽利病院(現・千葉中央メディカルセンター)外科部長、同院副院長を経て、2007年総泉病院副院長、08年より現職。

総泉病院

1987年の創設以来、高齢者・慢性期医療のエキスパートとして、質の高い医療を提供し続けている療養型病院。療養型というと、介護施設に近いイメージがあるかもしれないが、総泉病院は比較的、医療的な介入を必要とする患者が多い。最近は、平均在院日数が短い患者も受け入れており、医師はもちろん、看護師やコメディカルも高いモチベーションを持って勤務している。急性期病院とはまた違ったやりがいがあり、職員は、高齢者医療に対する誇りを持っている。
また、自然豊かな丘の上にあり、広々とした庭園を有するため、心地よい環境で仕事に打ち込むことができる。勤務時間は無理がなく、当直は非常勤医が担うことが多い。常勤医の負担が少ない点も、総泉病院の特長である。

医療法人社団誠馨会 総泉病院

正式名称 医療法人社団誠馨会 総泉病院
所在地 千葉県千葉市若葉区更科町2592
設立年 1987年
診療科目 内科、外科、整形外科、リハビリテーション科、神経内科、もの忘れ外来(シルバーメンタル)、嚥下障害外来
病床数 353床(療養病床305床、一般病床48床)
常勤医師数 10人
非常勤医師数 16人
外来患者数 約30人/日
入院患者数 約340人/日