VOL.98

手外科の医師からリハビリ医に
適切な回復期リハを提供し
在宅療養を含む地域医療に貢献

平和台病院
リハビリテーション科 五十嵐康美氏(64歳)

福島県出身

1979年
秋田大学医学部卒業
同医学部附属病院整形外科で研修後、勤務医に
1984年
秋田厚生連 山本組合総合病院
(現 JA秋田厚生連 能代厚生医療センター) 
整形外科科長
1986年
国立療養所西多賀病院
(現 独立行政法人国立病院機構 仙台西多賀病院) 
整形外科医長
1987年
いわき市常磐病院
(現 公益財団法人ときわ会 常磐病院) 
整形外科医長
1998年
国家公務員共済組合連合会 水府病院 
整形外科医長
2008年
会田記念リハビリテーション病院
(現 医療法人三星会
茨城リハビリテーション病院) 
リハビリテーション科
2018年
平和台病院 入職 リハビリテーション科部長

大学病院等で30年近く手外科の医師を続けた後、50代からリハビリテーションの分野に転身した五十嵐康美氏。60代でリハビリの専門医を取得した努力家だが、大学時代からジャズバンドなどの音楽活動にも熱心という側面も持つ。2018年に入職した平和台病院では、「医療と音楽をミックスさせる新たなチャンスに恵まれました」と笑顔で語る五十嵐氏の軌跡を追った。

リクルートドクターズキャリア6月号掲載

BEFORE 転職前

微細な血管・神経をつなぐ
手の外科を専門に選び
豊富な症例で技術力を高めた

音楽やテレビドラマが
外科医を知るきっかけに

手外科のスペシャリストとして30年近く活躍した五十嵐康美氏は、50代半ばにリハビリテーション医に転身。現在は平和台病院(千葉県)のリハビリテーション科部長を務める。医師歴よりも長いジャズバンド経験から、「リハビリテーション医もバンドのベーシストも、チームをうまくマネジメントするのが面白い」と笑う。

そんな五十嵐氏が医師を目指したきっかけも音楽で、幼い頃に通ったピアノ教室で知り合った友人の父親が外科医だったからと言う。テレビでは外科医が活躍する海外ドラマも人気で憧れは募った。

「高校時代は北杜夫の小説や手塚治虫のマンガも愛読し、医師をさらに身近に感じたことも医学部志望の気持ちを高めてくれました」

整形外科を専門に選んだのは、大学時代に喫煙用パイプの製作に凝り、道具を使って削ったり磨いたりする細かな作業が整形外科の手術に似ていると感じたからだ。

「その中でも大きな骨の手術より、微細な血管・神経を縫いつなげる手の外科がしっくりきて、そちらの道に進みました」

専門の症例を豊富に経験し
知識・技術を磨いた30代

大学病院での診療後は医局派遣により秋田県内の総合病院へ。整形外科全般を改めて勉強する機会を得たと五十嵐氏は言う。

「しかも周囲には手外科を専門とする病院がなく、切断された指の再接着など市内の症例のほとんどを私が診ることになり、専門分野でも多くの経験を積みました」

その後、家庭の事情で生まれ故郷の近くで勤務先を探す必要に迫られた五十嵐氏は、秋田大学から東北大学に医局を移り、仙台市やいわき市の病院で診療を続けた。

「特にいわき市の常磐病院にいたときは、広い市域に対して手外科の医師は私以外に1人いるだけという状況。同院を含め市立病院が3院あったおかげで、市内の医療機関から紹介される手の症例のほとんどは私が診て、それ以外は他の2院で対応するといった役割分担も上手くできていました」

またもう1人の手外科医の出身大学という縁で、この頃の日本でトップクラスにあった慶應義塾大学の手外科で定期的に研修を受け、カンファレンスも参加して知識・技術を磨けたと当時を振り返る。

病院の経営方針の変更等で
40代から10年おきに転職

この充実した日々は10年ほど続いたが、やがて市立病院の経営悪化から3院の統廃合が決定。五十嵐氏も整形外科全般の診療や全科救急を担当することになった。

「自治体の意向で仕方ないことですが、私の専門とは異なる業務。体調の悪化などもあり、40代半ばで転職を考えました。手の外科ができる転職先を探し、適した病院を見つけたので、これが最後と思って転職したのですが……」

転職先でも市内の手外科の症例のほとんどを診るなど恵まれていたが、研修医制度の変更で、自分が所属する医局からの派遣が望めなくなり、病院が他大学の医局と連携したことで環境は激変。五十嵐氏は再度転職を決めた。

しかし50代では、外科医としてさらなる技術向上は難しいと考えた五十嵐氏は、整形外科手術後のフォローに興味があったことからリハビリテーション科への転身を希望。研修医時代に身体障害児施設でリハビリに携わった経験もあり、チームをマネジメントする面白さも感じていたと言う。

「このとき初めて紹介会社を利用しましたが、ある担当者と非常に馬が合い、こちらの意図をくんで転職先候補を紹介してくれました。私が知らなかった病院も多く、興味深い転職活動でしたね」

その中から選んだのは茨城県の病院。資格取得などスキルアップも奨励しており、五十嵐氏も臨床心理士やリハビリテーション科専門医などをここで取得した。

「回復期リハの体制も整っていて、私自身も勉強になりました。ただ、経営母体が変わって自分と合わないと感じるようになり、本当にこれが最後のチャンスと60代で平和台病院に転職したのです」

同院はグループとして地域の医療と介護・福祉の充実を目指しており、そこに自分の力が生かせると五十嵐氏は判断した。

AFTER 転職後

患者の在宅復帰のため
リハビリチームを支援する
マネージャー役を目指す

病棟の専従医となって
回復期リハの充実を図る

五十嵐氏が2018年に転職した平和台病院は、その数年前に回復期リハや緩和ケアの病床を増床し、同院の整形外科で診た患者以外に、他院の脳神経外科で治療した患者の受け入れも始めていた。

リハビリスタッフはこの状況に前向きに取り組んでいたが、各診療科の医師は忙しくて回復期リハまでなかなか手が回らず、スタッフともすれ違いがちだったと五十嵐氏は入職当時を振り返る。

「そうした中に私が病棟の専従医として加わり、スタッフと緊密にコミュニケーションしながら、退院後の暮らしを見据えた適切なリハビリ計画を実行してきたことで、当院の回復期リハの体制が次第に整ってきたと感じています」

スタッフには「自分はサポートする立場」と明確に伝え、一人ひとりに声をかけたり、食事に同席したりと日頃からコミュニケーションを心がけたと言う。五十嵐氏が前職で培った経験も生き、同院の回復期リハ病棟入院料は4から1にアップするなど、成果は着実に現れているようだ。

「以前に臨床心理士の資格を取ったのは、脊髄損傷など重篤な障害を負った患者さんが、現状を受け入れる心理過程に興味があったからですが、同時に『相手が何を言いたいのか』を丁寧に聞く姿勢も養えました。この力は、多方面とコミュニケーションする今の業務にとても役立っています」

リハビリスタッフと協力して
患者の物語を幸せな結末へ

リハビリは患者一人ひとりの物語だと言う五十嵐氏。QOL向上や自宅や施設への復帰といった結末に向けて、予後を予測した上で結末に至る流れを考え、実現に必要なリハビリ要素を組み立てる。途中の予想外のトラブルも乗り越えつつ、主役の患者とそれを囲むスタッフなどの登場人物がストーリーを綴っていくのだと語る。

「患者さんの幸せな結末のためにPTやOTをはじめとするリハビリチームを支援し、チームが目的を果たすようマネジメントするのがリハビリ医の役割なのです」

また、五十嵐氏は同院のリハビリの窓口となって地域のケアマネジャーとの連携を深め、患者が望む在宅療養を実現できるよう、積極的に情報交換をしたいと言う。

加えてより多くの患者を受け入れるため、五十嵐氏は近隣の急性期病院を自ら訪ね、院長や現場の医師にもコンタクトしている。

「当院には精神科の常勤医がおり、透析施設も備えているため、精神疾患や透析の患者さんにも回復期リハを提供できる点など、もっとアピールしたいですね。他の病院とフェイス・トゥ・フェイスの関係を作り、地域全体で急性期・回復期・在宅のシームレスな連携を実現したいと考えています」

自分を支えてくれた音楽で
患者の心と体を癒したい

子どもの頃にピアノを習った五十嵐氏は、大学に入ってジャズバンドでピアノを弾き始め、卒業してベース担当になった。その後もジャズとハワイアンのバンドで定期的に演奏するなど、診療とは別に音楽活動を続けてきた。

50代と60代の転職では、こうしたプライベートの充実も重要な条件だったと言う五十嵐氏だが、最近は自分の在籍バンドが院内イベントで演奏するなど、医師の仕事と音楽活動がクロスオーバーして楽しめる環境になっている。

「今後は緩和ケア病棟での音楽演奏も検討しています。緩和ケア病棟の担当部長はギターがとても上手いので、2人でミニコンサートを開いたり、病室を個別に訪問したりといった活動ができるといいですね。ずっと私の支えだった音楽を通じて、患者さんの心と体を癒せたらと思っています」

平和台病院で行われたイベント「健康まつり」で演奏する五十嵐氏在籍のハワイアンバンド。 画像

平和台病院で行われたイベント「健康まつり」で演奏する五十嵐氏在籍のハワイアンバンド。

WELCOME

転職先の病院からのメッセージ
医療・介護サービスを包括的に提供

地域ニーズに応じて広がる
メディカルプラザ構想

24時間対応の救急医療からスタートした平和台病院は、現在の場所に新築移転した2000年に、医療だけでなく介護・福祉の分野までカバーし、地域のヘルスケアニーズに応える「メディカルプラザ構想」をスタートさせている。同院の理事長・院長である土井紀弘氏は構想をこう説明する。

「移転前から行っていた在宅医療や訪問看護ステーションなどの業務に加え、介護老人保健施設、デイサービス、グループホーム、小規模多機能型居宅介護等を順次開設し、多様なヘルスケア機能を持つ集合体として、一体的にサービスを提供する考えです」

同院の周辺5km以内に病院はなく、退院後の在宅療養に必要な施設・サービスも不足している。

「このため急性期から回復期、在宅療養、緩和ケア、さらには健診による病気の予防や早期発見まで、地域の皆さんのさまざまな状態にワンストップで対応するメディカルプラザが必要なのです」

もちろん医療の質の向上も重要な課題で、24時間365日対応の二次救急に加え、すべての診療科で一定レベルの手術ができる体制を整えたいと土井氏は言う。

「当院の看護師やコ・メディカルは医師をこまめにサポートしてくれますし、業務軽減のため医師事務作業補助者も配置するなど、医師が医療に集中できる環境を整えて質の向上を図っています」

そうした中、五十嵐氏をリハビリテーション科部長に迎えたことで、同院の回復期リハは確実にレベルアップしたと土井氏。

「五十嵐先生は周囲との協調性も備え、チーム一丸となって目標に向かう姿勢は素晴らしいですね」

このほか同院は介護分野の教育にも力を入れ、創造会ケアカレッジとして介護福祉士実務者研修の通信講座も開講。地域に必要な介護職の育成を支援している。

「現在は医療・介護・福祉・教育がメディカルプラザ構想の柱です。以前はJICA海外研修生を受け入れ、近年はベトナム人留学生の介護士教育を担うなど、微力ですが国際的にも貢献しています」

土井紀弘氏

土井紀弘
平和台病院 理事長・院長
1978年鳥取大学医学部卒後、京都大学医学部麻酔科に入局。大阪府内の総合病院などで診療後、1986年に大学時代の友人らと平和台病院を開設し、院長に就任。2017年から我孫子市医師会長も務める。

平和台病院

同院は1986年、JR成田線布佐駅近くに開設され、当初は24時間対応の救急医療を含む急性期医療を中心に診療。その後、在宅医療を開始し、訪問看護ステーションや居宅介護支援事業所等の開設、病院施設の移転と拡充、介護老人保健施設の開設などにより、地域のヘルスケアニーズを多面的にカバーする「メディカルプラザ構想」を着実に進めてきた。同院が包括的に実践する地域医療は医療・介護・福祉・教育を横断するもので、介護分野の人材育成にも力を入れている。

平和台病院

正式名称 医療法人社団 創造会 平和台病院
所在地 千葉県我孫子市布佐834-28
開設年 1986年
診療科目 内科、呼吸器内科、循環器内科、消化器内科、
糖尿病内科、腎臓内科、脳神経内科、
人工透析内科、ペインクリニック内科、精神科、
外科、呼吸器外科、消化器外科、肛門外科、
整形外科、脳神経外科、乳腺外科、形成外科、
皮膚科、泌尿器科、眼科、救急科、耳鼻咽喉科、
リハビリテーション科、麻酔科
病床数 184床
(一般86床、地域包括ケア38床、回復期リハ40床、緩和ケア20床)
常勤医師数 18人
非常勤医師数 57人
外来患者数 410人/日
入院患者数 165人/日
(2019年4月時点)