VOL.63

Uターンで故郷の危機に直面。
地域重視へと転換を図る病院で、
治療の手応えを実感する

塩田記念病院
整形外科 石井 薫氏(58歳)

千葉県出身

1988年
旭川医科大学卒業
1989年
旭川医科大学医学部附属病院(現・旭川医科大学病院) 整形外科
1991年
北見赤十字病院
1992年
整形外科 進藤病院
1993年
旭川赤十字病院
1994年
深川市立病院
1996年
道立羽幌病院
1999年
北海道療育園
2000年
市立稚内病院
2004年
千葉県に戻り、正朋会 宍倉病院に入職
2011年
東光会 茂原中央病院
2013年
医療法人SHIODA 塩田記念病院に入職

大学入学のため故郷の千葉県を離れ、卒業後の病院勤務を含めると20年以上も北海道で暮らした石井薫氏。その胸中には「両親に何かあれば帰郷して、地元で転職しよう」との思いがあった。そのときが来て、いざ戻ろうとしたとき大きな問題に気づく。今や全国どの地域も抱えるはずの問題に、石井氏はどう対処したのだろう。

リクルートドクターズキャリア7月号掲載

BEFORE 転職前

雪のない町から雪深い北国へ
どこでも働ける医師を目指して、
多様な診療経験を望んだ

兄のように慕う親戚の死が、医師への道を後押しした

子どもの頃からスポーツに親しみ、所属する野球チームの試合で頑張り過ぎては、よくケガをしていたと笑う塩田記念病院(千葉県)整形外科の石井薫氏。

当時も今も、石井氏の住まいは千葉県でも温暖な房総半島、その太平洋側にあたる外房エリアにある。サーフィンなどマリンスポーツで知られる九十九里浜にも近く、都心で積雪した日もこちらでは雪を見ないのだという。

まさに屋外の遊びやスポーツに適した地域で育ち、ケガのたびに病院に通っていた石井氏にとって、医師は憧れの存在だった。「患者のケガや病気を治し、本人や家族に感謝され、頼られる仕事というイメージ。小学生の頃までは、医師に対する好感度はとても高かったですね」

その見方が大きく変わったのは中学1年生のとき。兄のように慕っていたいとこが交通事故で亡くなったのだ。

「事故現場近くの病院にすぐ運び込まれたのですが、残念な結果に終わってしまいました」

その日は日曜日で、病院で対応できたのは当直の医師1人。ひょっとして別の日なら助かったのではないか、もっと医師が多ければ何とかなったのでは……。

長く憧れの対象だった医師が、実は万能ではないという現実に直面したことで、新たな見方が加わったと石井氏は言う。

「憧れるだけでは駄目だ。自分も医師になって何とかしよう。そう強く思い始めたのです」

20年以上続く北海道時代も常に故郷を思っていた

石井氏の家庭に医療関係者はいなかったが、自分の好きな道を進めばいいという両親の意見に従い、医学部に進路を定めた。

進学する大学を北海道旭川市にしたのは、故郷にはない雪を見たい、スキーをやってみたいとの気持ちもあったからだ。

「結局はそれから旭川市や周辺の病院で診療を続け、20年以上の北海道暮らしとなりました。仕事も遊びも充実した日々を送りましたが、故郷のことは念頭に置いていました。長男の私は親に何かあったときは帰郷し、実家近くの病院に勤める考えだったのです」

しかし転職先の規模や種類までは選べないだろう。そう考えた石井氏は、どこでも通用するオールマイティーな力を身に付けた医師を目指すことにした。

「整形外科を専門にしたのは、もちろん自分がケガの治療でよくお世話になったからですが、同級生が専門志向を強める中、私はできるだけ偏りなく診療の幅を広げるよう心掛けました」

そうした中で培われた石井氏の診療は、患者が診察室に入る前から始まると言う。イスに座った姿勢、立ち上がってこちらに歩いてくる様子、その歩き方などをつぶさに観察しておくのだ。

「その上で患者さんの話を聞き、こちらから質問し、必要に応じて検査で裏付けをとることが大事。X線の画像だけでは診断はできません」

医療に対する姿勢を決めた大学時代の教授の言葉

多様な医療機関で診療した思い出は数限りないが、最も印象に残ったことを聞かれたら大学時代にさかのぼると言う。

「実はある定期試験の後で、教授に指摘されたのです。『法医学』の担当教授でしたが、その言葉は今も心に響いています」

確かに君は内容を十分理解しているし、間違いの原因はケアレスミスのせいというのもわかる。しかし医師にはミスは許されないのだ、と。

「それからは物事への取り組み方が変わったと思います」

患者さん一人ひとりに手を抜かず、診察では見落としがないよう意識を集中し、全力で診療する。

ネジを入れるときも位置や角度を完璧に。そうやって熱心に診療を続けていたある日、故郷から知らせが届く。

「父ががんで入院するとの連絡でした。以前から医局には帰郷が前提だと伝えていたので、そちらは問題なかったのですが……」

そんな石井氏を待っていたのは故郷の医療の厳しい現状だった。

AFTER 転職後

求めに応じて治療すれば
自然に患者が増える好循環
地域医療の面白みが実感できる

働く場所がなければ自ら動けという石井流の転職法

塩田記念病院に2013年に入職した石井氏だが、北海道から千葉県に戻ると決めた2004年当時は頭を抱えたと言う。

「どこでも通用するオールマイティーな力を身に付けたものの、肝心の勤務先がなかなか見当たらなかったのです」

その原因は病院不足だ。わずかな求人の情報も北海道までは届かず、結局は千葉県にいる家族に転職先を紹介してもらった。

故郷に戻った石井氏は、患者のためにも病院不足を何とかしたいと検討を重ねる。そして地域医療重視に舵を切り、病院拡充を着実に進める塩田記念病院を知って、その門を叩いたのだ。

「私の故郷を含め、房総半島中央部の茂原市と近隣6地区は1つの医療圏と見なせます。ここに約15万人という外房地区最大の人口を抱えながら、10万人あたりの病床数は全国平均を700床近く下回り、いわば大きな総合病院1つ分が不足していました」

地域内で対応できていた患者数はおよそ6割。この辺りは交通の便が良いこともあり、残り4割は地域外に流出していた。

「私の父の場合も、がんの治療が地元の病院で対応できないなど、非常に悔しい思いもしましたね」

新設は難しくても、まずは既存病院の病床数を増やして地域医療の充実を図りたい、との思いは現在勤めている塩田記念病院の方向性とも一致している。

「入職時の面接で院長や副院長と課題を確かめ合ったのです」

知人や恩師を診るなど地域に恩返しできるのも魅力

地域医療の中核を目指す塩田記念病院では近年患者数も増え、年齢層も高齢者から20、30代の若い世代まで広がった。そのような数の手応えに加え、石井氏は地域医療の魅力をこのように語る。

「自分の親の友人、お世話になった学校の先生などを診る機会もあるのが地域の病院。そのたびに、自分はこうした地域のみなさんに育てられたのだと実感し、自然に『地域全体に恩返しを』という気持ちになるんですね」

だからこそ地域のニーズに応え、どんな病気やケガでも受け入れて地域で治療を完結したいと願う。求められたことに応えられるのがやりがいになる、とも。

「そうなると当院のような中規模病院でも高いレベルの診療が求められます。実際ここ数年は豊富な院内教育と診療経験のおかげで、脳神経外科、同内科、循環器内科をはじめ各科の医師やスタッフが非常に力を付けてきて、とても頼もしく感じています」

地域医療の充実を願い移りゆく季節の中を走る

地元に戻って十数年、石井氏の生活にちょっとした変化がある。自宅から病院まで7kmの通勤ランが加わったのだ。途中に体操の時間を加え朝と夕方で計2時間、移りゆく季節を感じて走る。

「桜や新緑も美しいのですが、走っていると道端のスミレやタンポポといった小さな花々も目を楽しませてくれます」

自然に恵まれながら交通の便も良いという地域性は、患者の流出にもつながる一方で、都心からの通勤の容易さ、全国へのアクセスの良さにもなっている。

「20年以上暮らした北海道には友人も多く、自宅から羽田空港までは車で1時間程度なので、今でも気軽に行き来しています。もちろんここに住まなくても、千葉県内の他地域や都心からの通勤も問題ないと思いますね」

できれば患者のほぼ100%を地域内で診たい。求めに応じた診療で患者が増えるやりがいを胸に、地域医療のさらなる充実を目指して、石井氏は今日も房総半島の自然の中を走るのだろう。

病院の有志で地元のマラソン大会にも参加。中央のサングラスが石井氏。前列左から3人目は遠藤信夫院長。

WELCOME

転職先の病院からのメッセージ
地域ニーズに応じて高度な医療まで提供

地域医療の受け皿として住民からの期待も大きい

千葉県全体で人口10万人あたりの医師数は東京都の約6割。同院のある長柄町、隣接する茂原市を含む「山武長生夷隅医療圏」で見ると東京都の4割に満たないだけに、地域に根ざす病院は渇望されていたと塩田匡宣副院長は言う。

「その期待に応えて地域に開かれた病院となってから、当院の患者さんの年代層は大きく広がり、20、30代の割合も増えました」

特別PRもしなかったが、同院の良さは口コミで広がり、新たな患者の掘り起こしにつながった。良質な診療を地道に行い、知名度が上がってきた結果だろう。

「地域に患者さんはたくさんいらして、その要求に応える質の高い医療を提供すれば、自然に集まっていただけると確信しました」

もちろん救急専門の常勤医師を招くなど診療態勢も強化している。救急患者の受け入れ数も2014年度には前年度の月平均71人から118人に急増。循環器内科はカテーテルを得意とする医師を中心に常勤4人の態勢を整え、脳神経外科や整形外科も手厚い教育でメンバーの成長は著しい。

「どの診療科も症例数は多く、高齢の方特有の疾患に別の疾患が複合するなど、勉強になるケースは多いはず。私も都下の病院で脊椎脊髄の手術を多く経験しましたが、最近は当院もそこと同程度の治療が可能になったと感じます」

と語る塩田副院長は現在も都内から電車や車で通勤する。その他の常勤医師も半数が地元住まい、半数は地域外から通勤というから、交通の便は本当に良いようだ。

「そして町の行政もお住まいのみなさんも当院の診療を本当に歓迎してくださる。地域一体の意味を、ここで初めて実感しました」

それは体験してみないとわからない感動だと塩田副院長。

「ですから当院は非常勤希望者をできる限り受け入れ、まずはこの病院、地域で診療する良さを体験してほしいと思っています」

診療や教育を充実させ、手応えを感じながら人員を増やし、地域のために病院を大きくするという同院の挑戦は始まったばかりだ。

塩田 匡宣氏

塩田 匡宣
医療法人SHIODA 塩田記念病院
副院長
1982年、慶應義塾大学医学部を卒業。首都圏の総合病院を中心に診療経験を積んだ後、1998年から独立行政法人 国立病院機構 村山医療センターへ。15年近くにもなる在籍期間中、脊椎脊髄手術などを数多く経験した。2013年から塩田記念病院に入職し、副院長に就任。

塩田記念病院

2012年に名称変更し、地域医療に力を入れる方針を明確にした同院は、二次指定救急病院として患者を積極的に受け入れる。循環器内科はカテーテル治療も手掛け、麻酔科にも常勤医師を配置して、より安全な治療に力を注ぐなど、充実した診療態勢を整えてきた。設備は一般的な検査機器はもちろん、高解像の3.0Tを含む2台のMRI、サイバーナイフ、DSA(血管撮影)室なども備え、高水準の診療をサポート。できる限り高度な医療を地域内で提供したいと、医師やスタッフも意欲的だ。

塩田記念病院

正式名称 医療法人SHIODA 塩田記念病院
所在地 千葉県長生郡長柄町国府里550-1
設立年 2009年
診療科目 外科、内科、整形外科、脳神経外科、
循環器内科、婦人科、麻酔科、
救急科、呼吸器内科、耳鼻咽喉科、
脳神経内科、泌尿器科、皮膚科、
リハビリテーション科、放射線科
病床数 102床
常勤医師数 13人
非常勤医師数 33人
外来患者数 210人/1日
入院患者数 82人/1日
(2016年6月時点)