VOL.29

通勤時間を惜しむほどの激務から
自宅まで徒歩2分の病院に転職
私生活を大切にできる環境へ

社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院 化学療法科 
中村 将人
氏(39歳)

大阪府出身

1997年
信州大学医学部卒業
大阪大学医学部消化器外科入局
国立病院機構大阪医療センター外科
2000年
市立吹田市民病院外科
2002年
大阪大学医学部付属病院消化器外科
2006年
社会医療法人財団慈泉会相澤病院外科
2007年
同院がん集学治療センター化学療法科統括医長

深夜帰宅と早朝出勤の生活を丸9年間つづけてきた中村将人氏は、勤務していた大学病院での仕事に一区切りついたのを自らの転機と決めた。そして、選んだ新天地は夫人の故郷である長野県松本市。家族団らんもなく、仕事一筋で突っ走ってきた時間を取り戻したいとの思いもあったのだろう、「妻の実家から徒歩2分という近さが決め手でした」と笑う中村氏。当初は新しい勤務先の病院でのんびりとした医師人生を目論んでいたというが、天は中村氏を放っておきはしなかった。入職から1年後、新設された「がん集学治療センター」内の化学療法科のマネジメントを任される。6年目を迎えた現在、やわらかな中にも気力のみなぎる中村氏の表情から、今回のキャリアチェンジの高い満足度が伝わってくる。

リクルートドクターズキャリア1月号掲載

BEFORE 転職前

家族に心労をかける仕事一辺倒の働き方を見直したかった

医局に着替えを届けるたび妻は自分の安否を確認していた

柔和な語り口と穏やかなまなざしで、中村氏はゆっくりと大学医局時代を振り返る。

「深夜・未明に家に帰り、風呂に入って食事をして寝るだけ。そして朝6時には家を出る。一般的に大学病院は多忙な職場だと知っていましたし、周囲の同僚や先輩方も自分と同じ生活だからと納得していましたが、妻にとって私との暮らしは結婚当初から戸惑いの連続だったでしょう」

自身の激務の大変さをことさらに強調せず、まずは夫人の気持ちをいたわる様子が、中村氏がいかに愛妻家であるかを象徴している。

「妻は、よく医局に着替えを届けに来てくれていたのですが、最近になり、『実はあなたが生きているかどうか、確かめに行っていたのよ』と明かされました。

今でこそ笑い話ですが、当時の妻としては真剣な心持ちだったでしょう。ずいぶんと気苦労をかけていたのだと、あらためて痛感しました」

医局の勤務状態は徐々に改善されていると聞くが、まだまだ追いつかない現実があちこちであるのだろう。

「医局では良い上司と仲間に恵まれており、勤務はたいへんでも辛いと感じたことはありませんでした。

一方で、一人っ子の妻が故郷の両親を案じる様子を見るにつけ、どうにかしてやりたいとも思っていました。そんな折、大学でつづけていた研究で博士号を取得でき、それをきっかけに自分自身の働き方を見直そうと転職を決意しました」

松本での暮らしが決まり転職先を探し始める

夫人の実家がある松本市への転居が決まった時点で、中村氏は新しい勤務先を同市内の病院から探そうと計画した。

「転職の条件で最優先したのは、何よりも『近さ』です。前勤務先の阪大病院へは自宅から片道1時間。ほかに大阪市内の病院での非常勤もあったのですが、そちらへは片道1時間半。ただでさえ時間が惜しい身に、この通勤時間は堪えました。

松本では妻の実家で彼女の両親とともに暮らすことが決まっていたので、なるべく実家に近い病院から探し始めました」

夫人の実家を訪れるたびに目にしていた相澤病院が、まっ先に転職先の候補に浮かび上がるとは、人生の縁とは不思議なものだ。中村氏は相澤病院のホームページを閲覧し、自ら電話をしてアプローチを開始した。

妻の実家より「徒歩2分」近さが何よりの決め手に

松本で転職先を探すにあたり、信州大学出身の中村氏は、大学に戻る選択肢はあえて外したと語る。

「私には、昔気質のサムライみたいな面があり、殿から離れるのであれば新しい殿には仕えたくないという頑固さがありました。ですから転職先に大学は考えていませんでした。

それに大学に戻ったとしても、今までのような生活になることは目に見えています。同じ轍は踏まないように、と思っていました」

相澤病院との話し合いはスムーズに進み、同院への転職の決意は早い段階でできた。

「市内でもう少しほかの病院も探そうかと思っていたのですが、面接官の先生から『一緒にがんばろう』と言われたとき、その医療に対するまっすぐな姿勢に共感して、思わず『はい』と答えていました。

それに、自宅から徒歩2分という近さが何より魅力的で(笑)、入職を決意しました」

転職のプロセスはスムーズだったが、このとき中村氏は意欲に満ち満ちていたわけではない。33歳の若さにありながら、本音では"これからの余生"を静かに過ごしたいとの枯淡の境地にいたと言う。

「大学病院での仕事を思い出すと、正直なところ、『もう十分に働いた』という気持ちになっていました」

にもかかわらず、中村氏は新天地で飛躍的な活躍をすることになる。中村氏の身の上に、どのような変化が起こったのだろうか。

AFTER 転職後

真摯なコメディカルたちと出会い
チーム医療のすばらしさを実感し
今までにない経験を楽しむ

コメディカルとともに飛躍のチャンスをつかむ

2006年4月、中村氏は相澤病院に外科医として入職した。

「勤務が始まり、いちばん驚いたのはコメディカルたちの貪欲とも言える学びへの意欲でした。その熱に私の内なる知識欲が触発され、再び仕事や研究へのモチベーションが湧き上がってきました」

担当業務が、現職であるがん集学治療センター化学療法科にシフトする時期だったのも奏功した。中村氏は抗がん剤をテーマに、院内で勉強会を立ち上げる。

「薬の基本をレクチャーした後、どういうケアが必要かを看護師とディスカッションしました。薬剤師とも勉強会を重ねるなど、コメディカルとの交流が私自身に大きな変化をもたらしたのです」

医局では教授を筆頭とする医師のピラミッドがあり、医療はその中で進んでいく。だが、中村氏率いる化学療法科に医師は中村氏しかいない。中村氏とコメディカルの密な連携なくして、医療は成り立たないのだ。

「07年に新設されたがん集学治療センターは、放射線治療科、緩和ケア科、化学療法科の3診療科からなりますが、全国的にも化学療法医が常駐するシステムはモデルケースがなく、初の試み。ゼロからの構築を真摯なコメディカルたちと試行錯誤しながら推進できたのは、何物にも代え難い経験になりました」

国際学会活動にも参加 日々精進できる幸せ

ウィーンで開催された国際学会にも参加した。
ウィーンで開催された国際学会にも参加した。
ウィーンで開催された国際学会にも参加した。

入職して6年目、今では数々の成果が中村氏を支えている。

「化学療法科の患者数が増えると同時に、科全体で学会発表に勤しむ学術的な風土が生まれ、私を含め、コメディカルにも講演依頼や原稿依頼がくるようになりました」

11年には、がんの二大学会と言われている米国臨床腫瘍学会と欧州臨床腫瘍学会に相次いで発表ができたと充実の表情。

「医局を出たときは、国際学会で発表することなど二度とない、と思っていましたが、良い仲間に出会い、刺激を受け、大きく飛躍した5年間でした。今後は地域連携に力を入れ、よりタイトに患者さんをケアできる地域づくりをめざします」

中村氏に転職の秘訣を尋ねた。

どこの病院でも実際に勤務してみないとわからない部分はあるでしょうが、予想外の状況を楽しむ気持ちは大事かもしれません。人と人が出会い、互いの心が響き合えば、新しい何かが生まれると信じています」

転職先で新たな希望を見出した中村氏。一方、家庭では朝夕の食事を家族全員で楽しむ。

「小学生の娘には、『松本に来るまで一緒にごはんを食べたことがなかったね』と言われました(笑)」

家族との触れ合いもまた、仕事への原動力となっているのだろう。

WELCOME

転職先の病院からのメッセージ
社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院 副院長 田内克典氏

がん治療をトータルにコーディネートできる病院へ

中信地方の民間病院では最大規模を誇る相澤病院は、理事長の相澤孝夫氏の的を射たマネジメントが成功し、地方病院の模範例として全国にその名を馳せている。副院長の田内克典氏は今から11年前に入職。以来、相澤理事長とともに院内改革に勤しんできた人物だ。

「私は松本市出身のため、医局を出るなら地元の施設へ、と考えていたところ、相澤理事長から外科の体制を整えてほしいと要望をいただきました。着任した当初、外科医はわずか4人でしたよ」

田内氏の入職後、外科の手術件数は倍増、医師数も飛躍的に増加。外科の立て直しはもちろん、各領域に専門医を配置できる体制が院内に整い始めた。当時から、田内氏の胸中にはひとつの思いがあった。がん治療をトータルコーディネートできる病院にしたい──。そして、夢は一つひとつ、実現している。

「私たちは現在、がんの患者さんに対して治療を選択してもらえるケアプランを提供しています。今あるガンマナイフ、トモセラピー(IMRT)のほか、13年秋には陽子線治療も加わり、多彩ながん治療を提示できる国内でも稀有な医療機関になるでしょう」

がん治療のケアプランは多職種協働で作成するため、医師のコミュニケーション能力が問われる場面も多々ある。

「いくら優秀な医師でも、スタッフの意見を聞けなければマネジメントはできません。中村先生は化学療法科をコメディカル全員と立ち上げた経緯もあり、互いに固い信頼関係で結ばれていると感じます」

医療の品質管理のためJCI取得をめざす

(※取材時は申請中でしたが、2013年2月にJCIの認定を取得しました)

人事考課制度をいち早く取り入れるなど、医療の品質管理に着目してきた同院は次なる取り組みとして、国際医療機能評価JCIの認証取得をめざしているという。

「患者さんにとって、『医師の当たり、はずれ』があるのは困ります。医療のレベルを病院が保証しなければならないのです」

一部で医師の技術評価の実施が叫ばれているが、当の医師たちから抵抗がないわけがない。

「自分の技術を評価されるのですから、本音としては面白くない面もあるでしょう。しかし、病院も一般企業と同じく品質を管理する時代になったのです」

これからの医療は、すべての点で「患者に選んでもらう」ことが重要な要素になるはず。患者満足度を得るために、病院側は並々ならぬ努力が迫られているのだ。

「夢と感動と輝きに満ちた病院をめざし、不断の改革を行う」──同院が掲げるミッションへの本気度がひしひしと伝わってきた。

田内 克典氏

田内 克典
社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院 副院長
1983年富山医科薬科大学医学部卒業後、富山医科薬科大学医学部第2外科入局。87年富山医科薬科大学大学院医学研究科入学、91年同卒。95年富山医科薬科大学第2外科助手、2000年富山医科薬科大学医学部第2外科講師、01年相澤病院外科統括医長、05年相澤病院院長補佐、12年より現職

社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院

救急を中心とした急性期医療を使命に、長野県中信地方の中核病院として、常に新しく良質な医療サービスの提供をめざす。2001年8月に民間病院としては全国3番目、長野県では初の地域医療支援病院としての承認を受け、05年には中信地区新型救命救急センターに指定。創立100周年を迎えた08年には地域がん診療連携拠点病院の指定、社会医療法人の認可を受ける。2013年2月にJCI取得。13年秋には、世界初の上下配置式小型陽子線治療施設となる「陽子線治療センター」が診療を開始する予定で、早くも問い合わせが相次いでいる。

社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院

正式名称 社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院
所在地 長野県松本市本庄2-5-1
設立年月日 1952年1月16日
診療科目 内科、呼吸器内科、循環器内科、消化器内科、
神経内科、人工透析内科、腎臓内科、疼痛緩和内科、
糖尿病内科、内視鏡内科・外科、気管食道外科、呼吸器外科、
形成外科、歯科口腔外科、消化器外科、小児外科、
心臓血管外科、整形外科、脳神経外科、乳腺外科、
眼科、救急科、産婦人科、耳鼻いんこう科、
腫瘍精神科、小児科、精神科、泌尿器科、
病理診断科、放射線診断科、放射線治療科、皮膚科、
麻酔科、リウマチ科、リハビリテーション科、臨床検査科
病床数 502床
常勤医師数 139名
非常勤医師数 85名
外来患者数 1日平均757.1人(2011年10月~2012年9月)
入院患者数 1日平均470.8人(2011年10月~2012年9月)