VOL.75

柔軟な働き方ができる
矯正施設での診療を通して、
被収容者の社会復帰を支援する

網走刑務所 医務課診療所
内科 大松広伸氏(54歳)

北海道出身

1988年
旭川医科大学医学部 卒業
同学部 第一内科 入局
旭川医科大学医学部附属病院 循環器内科・呼吸器内科 研修医
(現:旭川医科大学病院)
1989年
名寄市立総合病院 循環器内科・呼吸器内科 研修医
1990年
国立がんセンター 呼吸器内科 レジデント
(現:国立研究開発法人 国立がん研究センター)
1993年
同センター東病院 呼吸器内科 非常勤職員を経て常勤へ
2016年
網走刑務所 医務課長に就任

呼吸器内科を専門に、国立がんセンター(当時)で抗がん剤やヘリカルCT検診など、最先端のがん診療に取り組んできた大松広伸氏。忙しく働く生活を20数年も続けた末、「体力的にも厳しい職場を去り、今後どう生きるか」とキャリアを再考。生まれ故郷へのUターンのため探し当てた転職先は、50代からでも転職可能な矯正医官という公務員だった。

リクルートドクターズキャリア7月号掲載

BEFORE 転職前

最先端の内科治療を経て
肺がんCT検診の研究も経験
多忙な生活を20数年続けた

網走市、函館市、旭川市
進学のため道内を移り住む

オホーツク海を臨み、流氷でも全国的に知られる北海道網走市。同市の発展に深く携わった網走刑務所には医務課診療所があり、大松広伸氏は2016年からそこで診療を行っている。

千葉県の国立がん研究センター東病院に20年以上も在籍していた大松氏だが、出身地はこの網走市。中学校まで同市内で過ごした後、約600km離れた函館市内の高校に進学した。

「それまでは医師にさほど興味はなかったのですが、周囲には医学部を目指す同級生や先輩も多く、次第に影響されて医療に魅力を感じるようになりました」

医学部に進みたいという大松氏の希望に両親も賛同してくれ、高校卒業後は旭川医科大学に進学。

「勉強も頑張りましたが、3、4年生のときには友人とバイクでツーリングに出かけ、日本を一周したのもいい思い出です。テント持参でキャンプしながらのマイペース旅行は楽しかったですね(笑)」

肺がん患者を診た経験から
呼吸器を自らの専門に

その後は病院実習も始まり、再び勉強に没頭。国家試験対策の中で循環器や眼科を集中学習したことをきっかけに、卒業後はこのどちらかを専門に考えたという。

「その頃の私が思い描く医師像は、患者さんの全身を診るイメージでしたから、それに近い循環器内科をまず目指しました」

当時、旭川医科大学の第一内科の医局は、循環器と呼吸器などの分野を幅広く担当しており、大松氏も附属病院で肺がんの患者を受け持ったことから、呼吸器にも興味を持つようになった。

「大きな転機になったのは、国立がんセンターで3ヵ月の研修を終えて戻ってきた先輩の話でした。がん治療の最先端を経験する魅力のほか、同センターでのレジデント募集の情報も聞けたのです」

まだ肺がん患者が増えていた時代。それを何とかしたいとの思いに加え、先輩からもレジデントを勧められ、大松氏は国立がんセンターで経験を積もうと決意する。

内科治療の成果に納得できず
肺がんの早期発見に取り組む

最先端の医療を駆使し、肺がんで死亡する患者を減らしたい。そう考えた大松氏だったが、現実には治療の成果に納得できず、悔しい日々が続いたという。まだ抗がん剤の効き目は不確かで、投与後にがんの大きさが半分程度になるケースが3、4割しかなかった。

「逆に副作用は非常に強く、こうした内科治療で死亡者数を減らすのは難しいと感じていました」

レジデント期間も終わり間近、成果を実感できず悩む大松氏に対し、「治療とは違う切り口で、肺がんによる死亡者数を減らせないか」と新たな提案をくれたのは同センターの上司だった。

「それはがんの早期発見・早期治療を目指すプロジェクトで、具体的には発売されたばかりのヘリカルCTを使って肺がん検診に取り組むというものでした」

この目的のため大松氏は北海道には戻らず、同センターのレジデントから開院したばかりの同センター東病院の非常勤職員に。半年後、同病院のスタッフとなった。

そのプロジェクトは1994年からの厚生労働省「がん克服新10か年戦略」に組み込まれ、「CTによる肺がん検診は胸部X線の検診より発見率が非常に高い」という調査結果を発表。肺がんCT検診を一般に広める契機となった。

「そしてこうした検診でどれだけ死亡者数が減るのか、長い目で見守りたいと思い、私はプロジェクト終了後も国立がんセンターにとどまることにしたのです」

東病院では検査部門と診療部門が明確に分かれておらず、大松氏は検査、診療、ターミナルケアと幅広く担当するようになり、多忙な生活が長く続くことになる。

「非常にやりがいはありましたが、20数年も第一線にいると体力的に厳しい面も出てきます。また難しい状態の患者さんを担当していると休日も落ち着かず、精神的にも苦労は多かったですね」

実家で独り暮らしを続ける母親も気になり始め、Uターンを前提に仕事と暮らしを見直したい。そう考えた大松氏が選んだのは網走刑務所での勤務だった。

AFTER 転職後

一人ひとりを丁寧に診療し、
薬の量の適切な管理も含め
被収容者の健康維持に努めたい

医師不足が続く診療所
それは網走刑務所にあった

大松氏が網走刑務所を目にとめたのは、所内の医師不足を伝える報道がきっかけだったという。

刑務所や拘置所、少年院、少年鑑別所といった施設は矯正施設と呼ばれ、被収容者への改善更生の指導と併せて心身の健康管理も行う。このために施設内に診療所や病院を設け、医師(矯正医官)や看護師、薬剤師などが診療に当たるが、どこも医療従事者が不足している。報道はそんな内容だった。

「こうした現状を私は知りませんでしたし、取材された施設が故郷の網走刑務所だったことも興味を引きました。自分が生まれ育った地域に、医師として役立つことができればと考えたのです」

またUターン後は妻や母親との時間を大切にしようと、当直などがある医療機関、病棟を持つ施設での診療は避けたい考えだった大松氏。矯正医官は国家公務員という安定感に加え、おおむね定時で診療が終わり、平日の当直や土日勤務も基本的にないなど、働き方の面でも魅力的と語る。

「それから妻と一緒に矯正施設を管轄する法務省矯正局の担当者と会って、診療時は刑務官が同席するため被収容者と1対1にはならないといった話を聞いたことで、こちらの不安も解消できました。そして2016年4月から当所の診療所で勤務を始めたのです」

常勤の薬剤師と相談し、
薬の投与量を抑える工夫を

最初は幾重ものセキュリティチェックを経て所内に入る手続きに驚いた大松氏だが、中はいたって一般的な診療所風景。診療室には医師用の椅子とデスク、検査器具などが置かれ、事務処理等を行う医務課の部屋も近くにある。

現在、同所被収容者の平均年齢は40代から50代で、主な病気は感染症、腰痛症、生活習慣病など。

「それほど重い症状の人は所内にいません。また所内では治療が難しい症状と判断すれば、外部の病院で診てもらう体制が整っており、こうした対応は民間の診療所と変わらないはずです」

一方で大松氏が改善したいと考えているのが、常勤の医師や薬剤師が不在だった期間に進んだと思われる薬の量の多さだ。同所では大松氏の就任後に薬剤師も常勤になったため、今後は互いに相談しながら投与量を適切にコントロールしたいと目標を掲げる。

「そのため被収容者の普段の健康状態を把握しようと、個別の資料を読んだり、刑務官にヒアリングしたりと情報収集に努めています。これは被収容者の心身の健康管理とともに、当所の運営コスト削減にもつながると期待しています」

このほか大松氏は職員の健康にも気づかい、生活習慣の改善など必要な情報を所内に発信している。

自らの専門を生かして
地域の病院での診療も行う

同所での医師の勤務時間は平日8時30分から17時まで、土日祝日は休日となっているが、大松氏は就任初年度、火曜日に網走市内の病院、木曜日に美幌町の病院で非常勤として勤めたという。

「どちらも私の専門の呼吸器内科で、これも地域貢献の一つと捉えています。さすがに美幌町は遠く、1年で辞しましたが、網走市内での診療は現在も続けています」

本来なら兼業禁止の公務員だが、矯正医官は2015年に成立した「矯正医官の兼業の特例等に関する法律」により、平日の昼間を含め、所定の時間内での兼業や調査研究が認められている。こうして柔軟に働けるのも矯正医官を選んだ理由だという。

「少し前には母親を看取りましたが、最期に付き添えたのは思い切って職場を変えたからでしょう。自分の気持ちに正直に行動して本当に良かったと思います」

網走刑務所内の医務課の様子。薬剤師や看護師のほか、刑務官など職員が常駐するスペースだ。 画像

網走刑務所内の医務課の様子。薬剤師や看護師のほか、刑務官など職員が常駐するスペースだ。

WELCOME

転職先の病院からのメッセージ
社会復帰に必要な心身の健康を管理

兼業やフレックス勤務など
多様な働き方が可能に

刑務所をはじめ各地の矯正施設では、被収容者の改善更生を目指して教育や指導を提供しているが、一定の効果をあげるには被収容者の心身の健康が重要になる。

このため矯正施設内の医師(矯正医官)は健康診断、病気やけがの治療、所内の衛生管理などを行い、被収容者が社会人として健全に復帰するまでを支える「縁の下の力持ち」的な役割といえる。

「残念ながら医師不足は北海道に13ある矯正施設に共通の問題で、当所も長く常勤医師が不在でした。どうしても被収容者に対する診療を不安に思う方が多いようです」

所長の麓氏は現状をこう分析するが、実際には少なくとも医師と刑務官または法務教官が診療に同席し、必要なら刑務官を増やすなどの措置を取っているため、診療面でトラブルの心配はない。

「そうした説明で大松先生も納得され、2016年から着任していただいたことで、患者の急な病状の変化にすぐ対応できるなど職員も大変心強く感じています」

麓氏は所内の医療環境を向上させた大松氏を高く評価している。昨年はX線画像診断設備も更新し、今後も良好な環境で診療できるよう環境を整備したいという。

もちろん所内での診療は困難と判断されれば、即座に周囲の病院と連絡を取り、治療のため被収容者を連れていく。年間200件程度はこうした外部の病院で診療を受けるほか、必要に応じて医療専門施設・重点施設として指定された施設に移送するケースもある。

また最近は外部の医師からの問い合わせも増えていると麓氏。

「矯正医官の働き方に関する特例法によって、公務員でありながら兼業が認められ、一定の条件下で外部研究機関等での調査研究ができるなど、多様な経験も積めるようになりました。さらにフレックスタイム制により働きやすい時間帯で勤務することも可能です」

内科・外科を問わない一次診療の経験を積みながら、自らの専門性も磨き、ワークライフバランスも整う。矯正医官の柔軟な制度を利用してほしいと麓氏は語った。

麓 学氏

麓 学
網走刑務所 所長
刑務官として国内の刑務所、少年刑務所、拘置所などに勤務し、近年は各地の刑務所長を歴任。2017年4月から現職。

網走刑務所 医務課診療所

網走刑務所は1890年の開設以来、火災復旧工事、全面改装工事、拡大工事などを重ね、現在最も新しい建物は2010年に完成。医務課診療所はこの建物内に置かれ、矯正医療の理念のもと、被収容者を改善更生させる基盤となる健康の保持・回復、感染症の罹患や拡大を防いで公衆衛生上の責任を果たすといった目的を持っている。具体的には被収容者の健康診断をはじめ医療全般に第一次的に対応し、内科、外科を問わずに診る総合診療医的な位置付けとなる。特に同所は成人男性を収容しているため、受診者は風邪などの感染症、加齢による腰痛症、入所以前の不適切な食生活による生活習慣病、不眠などの精神疾患が主となっている。また診療所では対応できない症状は外部の医療機関に移送を行う。

網走刑務所 医務課診療所

正式名称 網走刑務所医務課診療所
所在地 北海道網走市字三眺官有無番地
設立年 1890年
診療科目 内科
常勤医師数 1人
非常勤医師数 5人
所内診察患者数 10人程度/日
(2017年4月時点)