医師の勤務先選びでは、往々にして立地の良さが重視される。都心部に近い病院は人気が高く、買い手市場に近い。一方で、地方病院はほとんどの地域で医師不足が解消されていない。だが、あえて地方の病院を選択した医師もいる。転職を機に移住し、地域医療の最前線で患者の命を守り、経験を積む。腰を据えて地域医療に取り組む働き方には、医師として新たな学びがあるようだ。

55歳で医師人生を振り返り、
やり残した地域医療への挑戦を決意

山中克郎氏は、2014年11月末日に名古屋市近郊の藤田保健衛生大学病院を辞し、翌日から長野県茅野市、八ヶ岳の麓にある諏訪中央病院に移った。1505床を有する都市部の大病院から、360床の地方病院に移った心境をこう語る。「私は今56歳ですが、55歳になった時、臨床の第一線でバリバリ活躍できるのは、あと10年ぐらいかもしれないと思ったのです。そして、やり残したことはないだろうか、と考えた」
山中氏は、もともと血液内科医だったが、1999年に留学したカリフォルニア大学サンフランシスコ校で、“診断の神様”と称されるローレンス・ティアニー氏と出会い、総合診療のおもしろさに目覚めた。以来、国立病院と大学病院で、病棟総合診療、救急医療、外来診療という、総合診療の3つの分野を担ってきた。「けれども、総合診療のもう一つの大事な領域である地域医療を、まだ経験していなかったのです」

うまくいっている時こそ若手に替わるべき時

地域といっても、どこへ行けばいいのだろうと思ったとき、頭に浮かんだのが諏訪中央病院だった。08年に諏訪湖畔で開催された日本感染症教育研究会のセミナーで、山中氏は諏訪中央病院の医師たちと知り合った。以来毎年、教育回診などで呼ばれ、交流を深めていたのだ。「ここは地域医療の歴史のある病院ですし、若手がすごく一生懸命に勉強していて、すぐれた指導医もいます。ここで地域医療を勉強させてもらいながら、もう一度自分自身の内科の知識をブラッシュアップしようと、大学を辞める決心をしました」
ただし、大学を辞めるのは容易ではなかった。「慰留はありました。病院幹部から、『大変な診療は部下に任せておけばいいんだから』と言われたり。いえ、そういうことではなく、私は臨床をやりたいんです、と言いました」
悩んでいた時、大学生の息子が薦めてくれたのが、アドラー心理学の『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)という本だった。「これを読んで、すごく影響を受けました。ああ、嫌われてもいいんだ。それよりも、自分のやりたいことを主張した方がいいんだ、と。それからもう一つそこに書いてあったのは、『より大きな共同体の声を聴け』ということでした。大学のことだけでなく日本全体のことを考えたら、やはり私は地域にいくべきだと、ふっきれました」
後輩が順調に育って、山中氏が率いる救急総合内科がうまくいっていることも、決意を後押しした。「教授をしていた4年間に、3人で始めた科が25人に増えました。優秀な人たちが入って来てくれて、新たに教授も2人誕生しました」
山中氏は、「うまくいっているときこそ、上が替わらないといけない」と言う。「上が替わらないと、ずっと同じような態勢になってしまいますから。若い人に科を担ってもらって、私とは違う形で大学の診療を展開してほしいと思ったのです」

  1. RDC会員アンケート

    半数以上の医師が都市部勤務にこだわっていない


    『リクルートドクターズキャリア』(RDC)の登録会員にアンケートを行ったところ、勤務先に大都市圏、または政令指定都市を希望する医師は合わせて44.6%にとどまった。残りは「自分や配偶者の地元」(33%)、「上記以外の地方勤務も可」(12.3%)、「特に希望はない」(10.1%)と、都市部にこだわらない様子がうかがえた(グラフ参照)。また、読者のなかからは、実際に転職移住を考えている声も寄せられた。地方に家を購入して将来の移住を計画している話や、医師不足に悩む地域への医師の移住を促進すべきとする意見が見られた。一方で、慎重論もある。配偶者の勤務状況や、子どもの教育を気にする声が目立っていた。家族の納得と協力があってこその、転職移住と言えるかもしれない。

現在の勤務先を決める際、または今後勤務する際に、勤務地についての希望を教えてください。
現在の勤務先を決める際、または今後勤務する際に、勤務地についての希望を教えてください。

大学病院での経験を生かし、地域で若手を育てる

病院の窓からは、美しい八ヶ岳の稜線が見える。もともと山が好きだった山中氏にとって嬉しい景色。
病院の窓からは、美しい八ヶ岳の稜線が見える。もともと山が好きだった山中氏にとって嬉しい景色。

山中氏が地方病院に移ったもう一つの大きな理由は、地域で若手医師の育成に当たりたかったからだ。「今は、早く専門医資格を取りたい医師が都会に集中する一方で、地域枠で入学し、地域で働く医師も増えています。ところが、医師不足の地域では指導医がいないため、若手の教育ができないのです」
諏訪中央病院には、研修医が1学年5名で、指導医もそろっている。だが、長野県全体を見た場合、やはり医師は少ない。「ここで何らかの教育システム作りをして、それを長野県全体に、ひいては日本全体に提供できればいいと思っています」
病院の窓からは、美しい八ヶ岳の稜線が見える。もともと山が好きだった山中氏にとって嬉しい景色。
もちろん、一人でも書籍を読んで学ぶことはできる。が、医学教育では実地が重要だ。「フェイス・トゥー・フェイスで一緒に患者を診て、『この患者はこういう病気の可能性があるので、このことを問診しなさい』とか、『脚が腫れているのはどういう原因があるか』とか、より実践的なことを教えたいと思っています」
困っている若手にいいアドバイスができた時は、とても嬉しくなって「もっと勉強しなくては!」と、燃えるのだと言う。「月曜から木曜までの4日勤務です。金曜は研究日のため病院に来る必要はありません。おかげで、すごくたくさん論文を読めるようになりました。これは地方ならではのメリットです」
単身赴任で妻と会うのは月2回だが、「それもまた新鮮でいい」と、山中氏は笑う。しかも職住接近で、美しい自然も満喫できる。「一番のメリットは、患者さんや教育のことだけを考えていればいいことです。前職では管理業務が多くて、臨床が年々できなくなっていましたから。今は精神的にも非常にリラックスできますし、満ち足りています」

山中 克郎

山中 克郎
組合立諏訪中央病院 院長補佐
三重県出身。1985年名古屋大学医学部卒業後、名古屋掖済会病院、名古屋大学病院免疫内科、バージニア・メイソン研究所、名城病院、米カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)一般内科、名古屋医療センター総合診療科、藤田保健衛生大学病院救急総合内科などを経て、2014年12月から現職。

温暖な南九州で、
訪問診療や地域包括ケアシステム作りに携わる

午前は外来と病棟、午後から訪問診療に出掛ける

「もともと、どこの地域で働くかに強いこだわりはありませんでした」
と語る通り、日南市立中部病院(宮崎県・93床)地域医療科・内科医長の桐ケ谷大淳氏は多くの県で経験を積んできた。滋賀医科大学医学部を卒業後、同大学附属病院と静岡県の病院で初期研修。その後、地域医療振興協会の後期研修医として神奈川県、静岡県、滋賀県の医療機関で、在宅医療を含む地域医療を学んだ。
宮崎県に移住したのは、結婚して子どももできたからである。「宮崎市にある妻の実家の近くに住み、地域医療にじっくり取り組もうと考えました」
 転職先探しは、宮崎県の医療薬務課に相談した。「それまでの経験で、患者との距離感の近い診療所の仕事や、訪問診療にやりがいを感じていました。最初は、宮崎県でも診療所で働くことを考えていましたが、むしろ困っているのは病院でした。当時、医師不足の影響で大学から医師が引き揚げられ、日南市立病院の内科医がゼロになると聞いて、ここに決めました」
現在は常勤医8人体制で、地域医療を担っている。桐ケ谷氏は、午前8時30分から昼まで外来や病棟を診療し、午後から訪問診療に出掛けることが多い。「在宅療養の患者は、だいたい10~20人くらいを受け持っています。およそ半数ががんのターミナルで、医療依存度の高い患者が中心です」
 同院では13年より在宅療養支援病院の認可を受けている。24時間365日の対応が必要なこともあって、平日の夜間は桐ケ谷氏がオンコール待機を担う。「たまに看取りで呼ばれることはありますが、時間外の出動はそれほど多くはありません。土日はほかの医師も対応しています」

地域のオピニオンリーダーの育成や若手医師の教育も行う

地域のオピニオンリーダーの育成や若手医師の教育も行う

全国的な高齢化は日南市も例外ではなく、在宅医療のニーズは高い。「地域の求めをかなえていることに、やりがいを感じます。多職種のスタッフとコミュニケーションをとりながら連携することも楽しいですし、患者やその家族から感謝の言葉をもらうと、やはりうれしいですね」
加えて、最近では地域住民のオピニオンリーダーの育成にも取り組んでいる。13年秋、日南市は地域医療対策室を設置し、地元の医療関係者ほか、住民も巻き込んだ活動を始めた。「住民向けの出前講座を実施しています。全6回シリーズで、私は看取りについて講義をしました。2025年に向け、行政と協力しながら地域包括ケアシステムを作り、『日南モデル』として宮崎県内に広げて行きたいですね」
14年10月からは、宮崎大学医学部地域医療・総合診療医学講座から声がかかり、助教に就任した。「学生研修の勉強会を手伝ったことがきっかけで話が進みました。今年4月からは当院に宮崎大学の学生が研修にやって来ます。また、近くにある県立日南病院の初期研修医の指導も行う予定です」
臨床、地域活動、そして教育と充実した日々を送る桐ケ谷氏。プライベートでは3人の子どもの父親でもある。「宮崎は自然が豊富で、食べ物も新鮮です。温暖で住民の人柄も温かく、子どもを伸び伸びと育てるには適した場所です。今後は、ワークライフバランスを取りながら、臨床研究にも取り組みたいと考えています」

桐ケ谷 大淳

桐ケ谷 大淳
日南市立中部病院 地域医療科・内科医長
大阪府出身。2001年、滋賀医科大学卒業後、同大学医学部附属病院総合診療部入局。初期研修終了後、地域医療振興協会で後期研修。横須賀市立うわまち病院、伊東市民病院、田子診療所所長での臨床を経験。09年、米原市国民健康保険近江診療所所長を経て12年4月から現職。14年10月より宮崎大学医学部地域医療・総合診療医学講座助教。

若いうちに多様な経験を積みたくて、
あえて医師の少ない地域に移住

看護師の〝通訳〟でお国言葉がわかるように

看護師の〝通訳〟でお国言葉がわかるように
つがる総合病院の南には、霊峰「岩木山」をのぞむ。景色の良さは地方病院ならでは。

埼玉県出身の末吉徳彦氏は、2011年に琉球大学を卒業後、青森県の黒石病院(黒石市・290床)での初期研修を受けた。その後、弘前大学医学部消化器血液内科学講座に入局。現在はつがる総合病院(五所川原市・438床)で後期研修を受けている。地域の急性期医療を担う中核病院だ。
つがる総合病院の南には、霊峰「岩木山」をのぞむ。景色の良さは地方病院ならでは。
もともとはつながりのなかった青森県を選んだのは、「医師が少なく、若手でも多くの経験を積めると考えたから」だ。その背景には、祖父の存在がある。祖父が住んでいた沖縄の離島は医師が少なく、地域医療は決して楽な状況ではなかった。医学生時代に医師不足の状況を目の当たりにした末吉氏は、「将来的には医師の少ない地域で医療に携わりたいと思いました」と言う。
おのずと目指す方向はジェネラリストになる。弘前大学の医局は、末吉氏のニーズにマッチしていた。「消化器内科の専門知識を身につけながら、総合的に診られる医師になりたいですね」
主治医制をとっており、卒後3年目の末吉氏に任される権限も大きい。「責任が重く、慎重さが求められます。その反面、自分で判断する場面が多いので、やりがいを感じます。困った時には上級医からのフォローもあり、勉強になります」
青森で働いていて、まず戸惑ったのは言葉の問題である。
患者の多くは高齢者だ。お国言葉である津軽弁を使うが、徐々に理解できるようになった。「例えば『胃がにやにやする』という表現。痛いほどではないけれど胃に不快感があるという意味ですが、最初に聞いた時はわかりませんでした。方言がわからないまま話を聞いていては危険ですが、看護師さんが“通訳”してくれますから、問題にはなりません。また、こちらがわかっていない時は患者も察するようで、ゆっくり言い直してくれたりもします」

自己研鑽が欠かせないが若手が経験を積むには適した場

日々、外来、病棟、救急対応と忙しく勤務している末吉氏。課題を挙げるとしたら、自己研鑽が欠かせないことだ。医師が少ないことから仕事量は多く、夜遅くになってから必要な勉強をする。「今はそうやって経験を積む時期だと思っています。自分で勉強しながら、若いうちに荒波にもまれ、多様な経験を重ねたいですね」
勤務状況は、当直が月1~2回。週2~3日は完全オンコールの待機状態だ。「なかなか遠出はできませんが、たまに土日が完全オフになれば東京などに出掛けてリフレッシュすることもあります」
大変さもあるが、臨床医として力がつくことには代えがたい。末吉氏は、後期研修が修了してからも、当面は青森県内にとどまろうと考えている。「医師が地方で働くことは、おそらく多くの人が持っているイメージとは異なる面もあります。若手が修業する場としては、選択肢に入れてもいいと思います。まずは一度、見学に行ってみてはどうでしょうか」

末吉 徳彦

末吉 徳彦
つがる西北五広域連合
つがる総合病院 消化器・血液・膠原病内科
埼玉県出身。社会人経験を経て、琉球大学医学部入学。2011年卒業後、黒石病院で初期研修。その後、弘前大学医学部消化器血液内科学講座入局。