ひとたび重大な医療事故が生じると、患者にとってのダメージはもとより、医師のキャリアにも響を与えかねない。リスク管理体制が十分な病院かどうかは、安心して働くための重要な視点といえそうだ。先進的な取り組みを行っている病院では、医師が参加しやすい対策を取っている。新しいリスク管理体制の現状を取材した。

  • 大学病院の取り組み

患者安全や質改善など、困難な課題に対し果敢にチャレンジする医師を養成

中堅医師がリスク管理を学ぶ専門講座がスタート

名大病院「医療の質・安全管理部」は、教授の長尾氏をはじめ、専従医師1人、専従弁護士1人、専従看護師3人、ほか事務職員6人からなる大所帯だ。
名大病院「医療の質・安全管理部」は、教授の長尾氏をはじめ、専従医師1人、専従弁護士1人、専従看護師3人、ほか事務職員6人からなる大所帯だ。

名古屋大学医学部「医療の質・安全管理部」教授の長尾能雅氏は、全国でも珍しい医療安全の専従教授だ。同附属病院(以下、名大病院)において、国内トップレベルの医療安全体制を構築してきた。
その名大病院で、2015年10月、画期的な事業が始まる。「明日の医療の質向上をリードする医師養成プロジェクト」だ。事業の柱は2本ある。1本目は、患者安全や質改善など、課題解決を担う専門的な医師の育成。2本目は、修了者同士がネットワークを組む「人財ハブ事業」だ。対象は、すでに医療現場で活躍している中堅や管理職の医師。140時間の講義、実習で、医療安全や医療の質向上を専門的に学ぶ。「現在、プログラム作りの最中ですが、主軸はOJTになる予定です。私たちと一緒に、医療の質・安全管理部の会議やインシデント検討会などに参加してもらい、日頃の医療安全対策を見てもらいます。勤務しながら受講できるように、140時間のフルコースを基本としながら、部分的に受講できるコースや、遠隔受講システムも設ける予定です」
特徴的なのは、産業界の品質管理手法を取り入れる点だ。同じ愛知県のトヨタグループと、品質管理の教育機関である中部品質管理協会とタイアップし、世界最高水準の品質管理手法を医療用にアレンジする。「WHOが11年に発表した患者安全ガイドラインでは、患者安全に他産業で育まれた品質管理の方法論を導入するように推奨されています。産業界の品質管理は、作業工程を標準化し、ばらつきを減らすことで悪い結果を防ぐという考え方です。何か問題が起きる前に、対策を取っておくのです。一方で、従来からある医療安全の手法は、医療中に有害事象が起きた事例を分析し、再発防止を図る方法です。両方で挟み撃ちするように、院内の有害事象を防ぐ時代に来ています」
修了した医師には、新たな認定資格を授与する。同時に、国が認定している「医療安全管理者」も取得できる。医療安全を新たなサブスペシャリティとして位置付ける考え方だ。これまで、医療安全への取り組みは医師のキャリアにつながりにくい側面があったが、一歩、解消に近づく。
修了後は、修了者同士がネットワークを組んで、事例検討会やベンチマーキングデータベースの構築等を行うことが想定されている。プロジェクトの2本目の柱、ハブ機能だ。「病院同士でベンチマークしながら、医療安全のPDCAサイクル(計画・実行・評価・改善)を回すことで、地域の課題解決能力を底上げしたいと考えています」
募集人員は20人の予定だが、すでに問合せが寄せられている。医療安全を学びたい医師のニーズは高いと見ることができる。

名大病院の報告数の推移

名大病院の報告数の推移

医師の報告文化はその病院の「足腰の強さ」

長尾氏は、「患者安全をはじめとするリスク管理の整った病院でなければ、医師は安心して働くことができない」と言う。
その理由は、インシデント報告の意義を考えればわかる。日本では、ヒヤリハット事例のみならず、診療に関連して発生した有害事象(医療事故)も報告対象となってきたが、そこには3点の意義がある。1.患者安全の確保:患者の原状回復のための治療連携を発動させる。2.重要情報の共有:重大な有害事象に対し、組織的対応を発動させる。3.透明性の確保:隠蔽の意思がなかったことを担保する。
なかでも長尾氏が重視しているのは、1.患者安全の確保だ。名大病院では、事故直後の早期対応に力を入れている。仮に手術を受けた患者に器具の体内残置があった場合、速やかに医療安全部門に報告され、全部門に配置されたセーフティマネージャーが集まって、器具を摘出する連携体制が検討、実行される。
2.の重要情報の共有は、患者やその家族への説明、再発防止策の模索、各種行政機関への報告、マスコミ対応など、さまざまな社会的対応である。長尾氏は「有害事象の報告によって組織内で客観的かつ冷静な判断ができれば、やがてチームを独善から救うことになる」と言う。そうした組織的な対応を速やかに行うことは、③透明性の確保にもつながる。「これらを実践するには、日頃からの報告行動、特に患者に発生した有害事象を捉えた医師による報告が重要です。医師が躊躇なく報告できる環境が整ってはじめて治療連携が可能となり、足腰の強い病院になります」
インシデント報告の件数は、患者安全に真面目に取り組むほど右肩上がりに増える。数の多さは、組織の危険性を示すものではなく、逆に安全意識や透明性、有害事象の抽出力が高まっていることを意味する。名大病院では、年間約1万件のインシデント報告があり、そのうち医師からの報告は、長尾氏が教授に就任して以来、増加している。「医師が就職先を選ぶ際、インシデント件数の多さを参考にすることも大切ではないでしょうか。各医療機関は、報告文化の成熟を根拠に、病院の安全意識の高さをアピールすればいい」

医療の質向上と患者安全を担う医師養成事業

医療の質向上と患者安全を担う医師養成事業

公正な事実把握と対応がインシデント報告を促す

とは言え、医師にとってインシデント報告は煩わしい面があるのも確かだ。報告のための作業にかかる時間や手間は、忙しい勤務医にとって少なからず負担になる。また、「自分の非を認めることになるのではないか」「キャリアに傷がつくのではないか」と負の感情によって躊躇する向きもある。そのため、報告した人の非懲罰、秘匿性を担保することなどが語られるが、長尾氏は「闇雲に非懲罰を語るのではなく、公正さが大切」と考えている。「まずは全体の事実関係を把握して、どこに問題があるかを特定します。システムに問題がある場合、個人に問題がある場合、あるいは両方のこともあるでしょう。公正な判断と対応を積み重ねることこそが、安全管理システムの信頼感を高め、インシデントを報告する際の心理的負担を軽減するはずです」
15年10月には、国による医療事故調査制度も開始する。医療事故によって患者が死亡した場合は、院内調査を行うことがすべての医療機関に義務付けられる。勤務先に十分なリスク管理体制が整っているか否かは、重要性が高まっている。

長尾 能雅

長尾 能雅
名古屋大学医学部附属病院 副病院長 医療の質・安全管理部教授
1994年群馬大学医学部卒業。土岐市立総合病院、公立陶生病院、名古屋大学医学部附属病院、京都大学医学部附属病院医療安全管理室室長を経て、2011年4月より名古屋大学医学部附属病院医療の質・安全管理部教授。医療の質・安全学会代議員。
  • 民間病院の取り組み

医療安全に特効薬はない。日頃の職員教育と小さな対策の積み重ねが医療の安全性を高める

2002年の医療事故が医療安全対策強化の契機に

毎月第2月曜日、前橋赤十字病院では全職種合同のM&Mカンファレンスが開かれる。医師だけでなく、看護師や薬剤師、事務職員も医療安全の観点から改善すべき事例を提示する。もともとは、医師が主体の死亡症例検討会だったが、5年ほど前から参加対象を広げた。
副院長で医療安全推進室室長の加藤清司氏は、「医療事故や過誤を防ぐには、死亡例だけでなく多様な患者の問題についていろんな職種で話し合う必要があるという声が院内からあがったため」と話す。
同院では、医療安全に向けての職員教育に余念がない。
毎年7月の医療安全推進月間には1泊2日で医療安全推進者養成ワークショップを行い、2月には外部講師を招いて医療安全研修アドバンスコースを実施する。両方を受講した職員をファシリテーターに認定し、その数は150人を超えた。
2011年から始めた「医療の質・安全教育講座」は、月1回、全15回シリーズで開催しており、参加者は毎回100人前後にのぼる。また、インシデント報告等、日頃の医療安全活動にかける意欲を高めるイベントもある。今年で第6回目を迎える医療安全大会は、16の部署が活動の成果を発表。職員の投票によって選ばれた優秀部署を表彰している。
これほどまでに職員教育に力を入れている背景には、02年に起きた医療事故がある。看護師が輸液ポンプの操作を誤り、患者2人が死亡した。マスコミに大きく報道され、現場は大きなショックを受けた。「事故が起きる前からワークショップは行っていましたが、まだまだ甘かったと思いました」

2015年10月「医療事故調」がいよいよスタート!

2015年10月「医療事故調」がいよいよスタート!

長い議論を経て成立した医療事故調査制度(医療事故調)が、2015年10月にスタートする。対象は全国約18万ヵ所の病院や診療所、助産所。診療行為に起因した患者の「予期せぬ死亡」があった際、まずは遺族に説明し、第三者機関「医療事故調査・支援センター」に届け出ることが義務付けられる。
その後、速やかに院内での事故調査を行い、結果を第三者機関と遺族にそれぞれ報告する。院内事故調は、カルテや画像、検査結果等の確認、現場当事者のヒアリングなどが想定されている。原則として外部の医療専門家からなる「医療事故調査等支援団体」(医師会、大学病院、各学会などを想定)の協力を受けて調査を行う。
遺族は、報告内容に不服があれば、第三者機関に再調査を依頼することができる。第三者機関は、院内事故調の結果の検証、現場当事者への事実確認、再発防止に向けた知見の整理などをして、遺族と医療機関に報告する。
遺族の要請による再調査というと、医療者の責任追及のような印象を受けるが、厚生労働省の「医療事故調査制度に関する Q&A」には「制度の目的は、医療事故の再発防止を行うことであり、責任追及を目的としたものではありません」と明記されている。
具体的な運用については、同省の「医療事故調査制度の施行に係る検討会」(座長:山本和彦一橋大学大学院法学研究科教授)で議論されている。届出の内容やタイミングなどに関する運用指針について協議しているが、委員の間で意見が対立している(14年11月現在)。
たとえば、第三者機関への第一報の内容について、「医療機関名や日時、患者の氏名など最低限にとどめて医療事故の内容には踏み込むべきでない」とする意見がある一方、「医療事故の内容も報告すべき」という意見もある。
また、報告のタイミングも24時間以内とスピードを重視する委員もいれば、1ヵ月以内とする委員もいる。事故調査報告書を遺族に渡すかどうかに関しても、賛否が分かれた状態だ。
厚労省では、15年2月をめどに議論をまとめ、3月にはパブリックコメントを募集。4月以降、第三者機関の申請受付を開始することを予定している。制度開始後、現場の医師にどのような影響があるのか、注目されている。

手術のほか内視鏡などにも「タイムアウト」を導入

医療事故後、医療安全体制を強化した。特に大きく変えたのは、08年、一般社団法人「医療安全全国共同行動」の取り組みに参加したことだ。同行動では「危険薬の誤投与防止」「周術期肺塞栓症の予防」など9つの行動目標と、推奨する取り組みが示されている。多くの参加施設は1~2項目を選ぶ中、同院ではすべて実施した。冒頭で紹介したM&Mカンファや医療安全大会などは、7つ目の行動目標「事例の要因分析から改善へ」を実践した対策である。
9項目の中でもとりわけインパクトが大きいのが「安全な手術|WHO指針の実践」に則って導入した「タイムアウト」だ。全スタッフが手を止めて、手術内容を指差し確認する。「麻酔導入前と執刀前に、患者の名前、患部の位置、手術時間などを読み上げ、チーム全体で手術内容を再確認します。手術を終える前には出血量、手術器具の数などを確認。使用した器具の体内残置を防いでいます。手間のかかることですから、当初は抵抗もありましたが徐々に定着しました。最近では、手術だけではなく、内視鏡や透析などの危険手技でもタイムアウトを実施しています」

事故が起きた際の対応をフローチャートで可視化

事故が起きた際の対応をフローチャートで可視化

共同行動とは別にQMS|H活動(Quality Management System forHealth care)にも尽力している。もともと企業の製品管理システムだったQMSを医療に生かす取り組みだ。その一環として、PFC(Process Flow Chart)の作成がある。問題が生じたときにスムーズに対応するため、業務の流れをフローチャートにまとめるのだ。
「仮に医療事故が起きたら、誰がどこに連絡し、どう対応するかの流れをすべてフローチャートにし、可視化しています。医療安全のレベルを高めると同時に、医療の質向上にも寄与しています」
これらの取り組みの甲斐があり、02年以降、重大な医療事故は起きていない。加藤氏は「医療安全に特効薬はない」と言うが、日々の地道な積み重ねが、安心して働ける現場を形成していることは間違いない。

加藤 清司

加藤 清司
前橋赤十字病院 副院長 医療安全推進室室長
1975年群馬大学医学部卒業。麻酔科指導医。浜松医科大学、群馬大学、北里大学を経て、97年から前橋赤十字病院。