医師は生涯、医師として働くことができる。とはいえ、医療機関には定年があるため、続けるなら誰しもが次のキャリアを考えなければならない。60歳、もしくは65歳を超えた先は、病院長に就任したり、開業したりといくつかの選択肢がある。満足いくセカンドキャリアを実現するには、どうしたらよいか?現役のときから心がけておきたいことはあるか?先人たちの声を聞いた。

  • Second Career1

「来た船に乗れ!」がポリシー。
未経験の分野への挑戦がキャリアにつながる

病院管理学を教えた経験が院長職の実践に役立った

2012年10月、名古屋大学大学院教授だった坂本純一氏(65歳)は、所属していた外科医局の教授と相談し、任期半ばで岐阜県の東海中央病院病院長に就任した。通常は65歳で定年だが、病院との契約で70歳まで勤務が可能。これまでの研究を継続するために、必要に応じて学会などで海外へ出かけることも認められるなど、好条件だった。

だが、当時の同院は経営難。理想的とは言えなかったが、それでもセカンドキャリアとして選択したのは、確固たるポリシーがあるからだ。「『来た船に乗れ!』。つまり、経験したことのない分野にも挑戦することを、ずっと大切にしてきました」

これまでのキャリアを振り返ると、名古屋大学卒業後、国内外の医療機関で研究や外科の臨床に携わった。06年には名古屋大学大学院「YLG・医療行政学講座」教授に就任。アフガニスタン、ラオス、ポーランドなど計15ヵ国から日本に来た厚生官僚に、医療行政と病院管理学を教える文部科学省管轄の講座だ。外科医の仕事とは異なり当初はとまどいもあったが、この時も「新しいことができるチャンス」と捉え、国内外を飛び回って講座運営に尽力した。

そして、この時の経験が現在の病院経営にも役立っているという。「私が就任した当初、東海中央病院は5年間で50億円の経常損失、さらに10億円近くの減価償却前赤字を計上してしまっており、極めてチャレンジングな状態でした。が、前職を担当したことから、医療財政をテーマに扱う機会も少なからずあり、病院経営に関する知識も蓄積されていたようでした」

就任後は病院立て直しのために、事務官と協力し、効率的な病院運営を実践した。結果、就任後、減価償却前赤字は一度も出さず、13年には4億円、14年は消費増税の影響を受けても1億円の減価償却前黒字だったという。

資金面だけでなく、病院の質向上にも力を入れた。基本は人であるとの考えから、職員一人一人とじっくり話して信頼関係を築き、問題のあるところから改善していった。「当院の駐車場で転倒して怪我をした患者を『救急のベッドが満床』との理由で拒否したことを事後に知ったことがありました。この場合、処置をしたうえで1日ほど入院してもらって様子を見ても過剰医療とは言いません。病院への市民の信頼を回復するために、診療を断った場合には、その理由書と担当医師の記名を私に提出するルールを作りました」「薬剤師からの『病棟における入院患者の薬剤の選別・配布に協力する』という自主的な活動を奨励した結果、病棟の残薬や薬の紛失、欠品などがほぼ完璧に解消し、看護師の負担軽減にもなり、職員にも好評でした。全病棟に広げて実施できるようになり、この業務の中心となった病棟薬剤師は副薬剤師長に昇格しました」

託児所の稼働時間を延長するなど、福利厚生も可能な限り充実させた。

現役時代にも勝る八面六臂ぶりだ。「あと2~3年ぐらいの間に経営を改善できる目途を立てておきたいと考えています。ここでの院長職は大変な面も多いですが、病院の経営難と医療崩壊を食い止めるために全力をあげて取り組んでいきたいと考えています。大きなやりがいを感じます。新たなことに挑戦し、さらに鳥瞰的な視野を持って舵取りをする。それが今につながっています」

坂本 純一
公立学校共済組合 東海中央病院 病院長
1975年名古屋大学医学部卒業。79年同大学院修了。81年Memorial Sloan Kettering Cancer Center客員研究員、85年名古屋大学医学部第二外科非常勤講師、85年愛知県がんセンター消化器外科医長、94年愛知県がんセンター愛知病院外科および臨床研究検査部副部長、愛知県がんセンター消化器外科副部長、2001年京都大学大学院医学研究科疫学研究情報管理学教授、06年名古屋大学大学院医学系研究科、医療行政科学(ヤング・リーダーズ・プログラム)教授、12年から現職。

坂本 純一氏

何歳まで働くか?

定年後も働きたい医師が多数診療所の方がより高齢まで働く傾向

「何歳まで働いていたいか?」で最も多いのは「70歳まで」(26.7%)で、「75歳まで」(12.1%)、「80歳まで」(11.4%)も少なくない。多くの病院が定年としている60歳や65歳まで働きたい医師は、約4分の1にとどまった。比較的長く働きたい医師が多いと読み取れる。一方で「わからない」も25.3%を占めた。厚労省の資料からは、病院より診療所の医師の年齢層が10歳以上高いことがわかる。実際には、60歳以上の病院勤務医はあまり多くないのが現状のようだ。

医師として何歳まで働きたいですか?

年齢階級別にみた医師数および平均年齢の年次推移

厚生労働省資料より

2015年の新入職者とともに。職員とのコミュニケーションを大事にする坂本氏の院長室には、多くの人が訪れる

  • Second Career2

勤務病院近くの診療所を引継ぎ、58歳で開業。
専門の内分泌と、副院長の経験を今に生かす

50代だったからこそ、納得しやり残し感なく開業できた

「元々はずっと勤務医のつもりで、開業指向ではなかったんですよ」

こう話すのは、よこ田こどもクリニック院長の横田行史氏(60歳)。定年前の2013年9月、神奈川県相模原市にクリニックを開業した。

横田氏は、長年にわたり北里大学病院や関連の相模原協同病院に勤務し、後者では副院長も務めた。

定年後のキャリアを考え始めたのは50代後半頃だという。「医師のいいところは選択肢が多いことです。私の専門は小児内分泌ですが、教育が好きで大学に居続けました。それもやり遂げたと思ったとき、いろいろ考えた中で、自分の力を試してみたい気持ちもあり、開業を意識するようになったんです」

セカンドキャリアが具体的に始動したのは、13年1月。相模原協同病院に近い小児科開業医から「リタイアするから跡を継がないか」と打診された。医師会活動などを通じて交流のある医師だった。医院継承は、新規で開業するよりコストを抑えられ、集患の面でも有利だ。さらに、「この場所でなら、今の病院と連携し、内分泌の患者を引き続き診られる、とも思いました」

すでに開業するイメージを持っていたので、決断はすぐだった。同年7月に病院を退職し、9月1日に開院した。スムーズに進んだ背景には、知人から紹介されたTKC会員の税理士、三浦康弘氏の存在がある。事業計画から全て二人三脚で動いた。「当初の考えどおり、一般小児科のほか『内分泌・代謝小児科』も標榜しました。内分泌は診療単価が高く、競合も少ないため、経営の“武器”になると思いました」

開業時、横田氏は58歳。資金の借入を最小限に抑える工夫もした。「内装工事は壁、天井のクロス交換と、受付をリフォームしたくらいにとどめました。看護師は妻と元同僚の2人。事務は3人のパートのうち1人は元同僚です。気心の知れた仲間と少人数で始めました。開業資金と3か月分の運営資金を合わせた借入額は、開業後5年で返済できる程度に抑えることができました」

開業後は、勤務医時代から主治医を務める内分泌の患者が約5%で、ほかは近隣の子どもの風邪や腹痛などを診ている。「『患者の人生を共に歩む』と言いましょうか。子どもの成長を診ていく小児科の醍醐味を実感しています」

医師が1人のため、医療情報を入手しにくかったり、孤独を感じたりすることもあるが、積極的に勉強会などに出てカバーしている。長期の休みは取りにくいが、後悔はない。「50代後半の開業でしたが、仮に40代だったら納得できなかったと思います。教育も臨床も、やり残し感がないことに満足しています」

セカンドキャリアで開業を考えている医師には、こうアドバイスする。「副院長時代の経営、人事等の経験は、とても役に立っています。勤務医は診療だけでなく、病院の経営、各種委員会、レクリエーション等のみならず、地域の医師会・勉強会にも積極的に参加し発言することが大切です。開業準備、開業後のクリニック運営に必ず役立ちます」

横田 行史
よこ田こどもクリニック 院長
1980年北里大学医学部卒業。同大学病院小児科レジデント、研究員、講師、助教授を経て、相模原協同病院小児科医長、部長、副院長を歴任。2013年から現職。

横田 行史氏

クリニックの受付周辺。壁に小窓がついていた状態を、明るいオープンカウンターにリフォームした。

  • Second Career3

次の世代に働きやすい病院を残すために
54歳で臨床を離れ、院長に就任した

外科医のキャリアは10年区切りで変化する

医師のセカンドキャリアは、診療科によって異なる。内科系は定年後も、継続雇用で診療を続けるか、開業する医師が多い。病理や放射線科なども継続雇用されるケースが少なくない。それに対し、外科系は大きな転換期がある。消化器外科が専門で新潟労災病院前院長の松原要一氏(71歳)も、10年区切りで段階的に変化していくと考えている。「一般的に、24歳で医師免許を取得してからの10年は修業期間で、35~44歳はまさに働き盛りです。しかし、自分のために働く期間はそこまでで、45歳前後で後進の教育に力を入れる外科医が多い。そして55歳前後で『第一の定年』を迎えます。どうしても体力、集中力、新しい手技を取り入れる能力が低下してくるからです。以降は臨床を続けるか、病院の経営に参画するか、あるいは地域に出て他院と連携体制を構築するかなど、道が分かれます。そこからちょうど10年後、65歳頃に制度上の定年を迎えます」

松原氏自身は、99年に54歳で臨床を離れ、鶴岡市立荘内病院(山形県)の院長に就任した。ちょうど病院の新築移転のタイミングで、一から診療体制を構築。約15億円をかけて、当時まだ珍しかった電子カルテを導入し、診療の効率化を図った。また、地元医師会と協力し、初診は診療所、病院は救急や重症患者に集中する医療提供体制も徹底させた。当初86億円だった医業収益は、退任前に100億円近くまで伸びた。「54歳でメスを置きましたが、寂しさは全くありませんでした。荘内病院は外科医が十分な能力を有していましたし、病院の運営は片手間にできる仕事ではないからです」

65歳で定年退職後、1年間は同院の顧問を続けながら新潟労災病院の院長を務めた。ここでも電子カルテを導入したほか、平均在院日数の短縮などで医業収益を上げた。医師不足で経営難になった際は全力を尽くした。2つの病院の院長経験は簡単ではなかったが、あえて挑戦した。「私が荘内病院の院長になると言ったら、外科の先輩はみんな反対しました。わざわざ火中の栗を拾うことはないと。しかし、後輩は賛成してくれた。私は後輩にいい病院を引き継ぐために、院長を務めました。大変だからこそ、自分が行ったんです。誰にでもできる仕事なら、臨床を辞めていなかったかもしれません」

 新潟労災病院では5年間の任期を10ヵ月延長し、15年12月に退任した。すでに“サードキャリア”が決まっている。「地域の健康寿命を延ばすために、健診に携わります。これからは、孫世代に健康な社会を残すことに時間を使いたいのです」

松原氏は、医師の人生を“タケノコの一生”になぞらえる。「春に出てきたタケノコは猛スピードで成長して6月には伸びを止め、栄養分をすべて、次の世代のタケノコ作りに費やします。人間はタケノコに負けてはだめですよね」と若々しい笑顔で語った。

松原 要一
独立行政法人 労働者健康福祉機構 新潟労災病院 院長
1969年新潟大学医学部卒業。焼津市立病院(静岡県)整形外科。70年より新潟大学第一外科助手、医局長、講師。87年には文部省在外研究員を務めた。92年新潟県立吉田病院外科。外科部長、診療部長をへて99年より鶴岡市立荘内病院院長。2010年から15年まで新潟労災病院院長を務めた。※肩書きは取材時(2015年12月)のものです。

松原 要一氏