従来の医療IT化は、紙や対面ベースの業務をシステム化することが主目的とされていた。しかし、最新のIT技術はさらに進化し、医療の質を向上させることを目指している。今は想像もできない診断・診療技術を生み出す可能性もある。その先にあるのは、患者にとって負担の少ない医療や、医療者の負担軽減である。日進月歩のテクノロジーがどう医療に応用されるか。開発推進者や現場で実践する医師に聞いた。
2015年7月、日本IBMは新たに「ワトソン事業部」を設立した。ワトソンとは、同社が開発している「コグニティブ・コンピューティング・システム」(認知コンピューター)だ。クラウド上に存在するソフトウエアで、ネット環境があればどこの国からもアクセスできる。これが、医療界を大きく変える可能性があると注目されている。
同部マーケティング担当の中野雅由氏は、これまでのコンピューターとの違いについてこう話す。「通常のコンピューターは、データベースの数値など構造化されたデータの扱いに特化していました。ビッグデータが注目される昨今、動画や音声、写真、テキストなど非構造化データが膨大に蓄積されていますが、通常のコンピューターでは解析できません。それに対し、ワトソンは非構造化データの中から知見を導き出すことができます。『コーパス』といって、専門領域に特化した情報を学習させられるのです。人間の子どもに本を読ませ、その内容を全て理解できるようなものです」
11年にはアメリカのクイズ番組『Jeopardy!』で人間のクイズチャンピオンを抑えてワトソンが優勝した。その時は、ウィキペディアや過去のクイズ問題を大量に学習させたという。システムは当時から進化しているものの、同じ理屈で、医学情報を大量に学習させると、医学に詳しいワトソンができる。「医療の現場では既に、人間が扱える域をとうに超えるほどの膨大な情報が蓄積されています」
と、同事業部ヘルスケア事業開発部長の溝上敏文氏は指摘する。「電子カルテのデータは各病院で増え続け、研究論文は、がんに関するものだけでも年間20万件も発表されます。最近はゲノム情報も増えてきました。ヒトの細胞の全ゲノムを読み取ると、およそ100ギガバイトのデータが生成されます」(溝上氏)
ワトソンは、こうしたビッグデータを解析し、医学研究や診療を支援してくれる。今年4月にアメリカのIBMが立ち上げた「Watson Health Cloud」は、電子カルテや遺伝子情報、生活習慣のデータを解析し、新しい医療サービスの開発に役立てようとしている。画像診断を促進する研究も進められている。「MRIやCT等の医療用画像機器は、1回あたり大量の枚数の画像を出力します。人間が1枚1枚見て判断するのは大変ですが、ワトソンに医療画像を学習させておけば、人間が見落としそうな変化も見つけられる可能性があります。アメリカのメモリアル・スローン・ケタリングがんセンターでは、皮膚の画像からメラノーマなのかシミなのかを判断する技術を研究しています」(溝上氏)
日本でも一部の医療機関で、ワトソンを用いた研究が始動している。「東京大学医科学研究所では、北米以外で初めて『Watson Genomic Analytics』を採用し、腫瘍の遺伝子の解析、および効果的な薬剤選定に繋げる研究をしています。これが実現すると、治療に寄与するだけでなく、効かない抗がん剤を使用することが減り、医療費の削減にもつながります」(溝上氏)
膨大な非構造化データの解析により、日常診療の誤診を減らすことにも寄与するかもしれない。「体温や痛みの位置、食事内容、過去の病歴、家族の病歴などのデータをワトソンに学ばせ、解析結果を基に診断できれば、より正確な診療につながると考えられます」(溝上氏)
さらに、創薬の開発でも、ワトソンが着想を得るきっかけになる。「アメリカのベイラー医科大学では、がん細胞を抑制する遺伝子『p53』に関する約7万本の論文をワトソンに読ませ、創薬につながるタンパク質を発見しています。通常、年に1つ見つかれば成功と言われるのに、一気に7つも発見したのです」(中野氏)
ここまで多様な可能性があると、いつか医師の出番が減るのではないか、という気さえしてくる。だが、ワトソンの役割は、あくまで研究や診療の“支援”だという。「診察や治療は医師にしか行えません。しかして医師が1日に読める論文の数は5本程度。年間20万件も発表されるがん研究の論文を全て読むには、100年以上かかる計算です。日進月歩の医療界で多忙を極める医師を楽にし、一つ一つの判断を効果的に下せるようにするツール、それがワトソンの役割です」(中野氏)
一方、現場に普及させるには、乗り越えなければならない課題もある。「たとえば診療支援。広く活用される社会の実現には、やはり旗を振ってくれる人が必要です。国なのか、自治体なのか、大きな病院なのか。そのための費用をどこがどう負担するのかも課題です」(中野氏)
医療のあり方を変えていく動きは、欧米の方がはるかに活発なようだ。「アメリカでは、国の医療研究開発を支援する国立衛生研究所(NIH)が潤沢な資金を持ち、研究機関を配下に従え、重要な研究に投資をして成果を出しています。日本にも今年4月、NIHをモデルとした日本医療研究開発機構が設立されましたが、資金面でははるかに及びません。さらに、アメリカでは富裕層から多額の寄付金もあり、日本とは大きく環境が違います」(溝上氏)
だが、明るい見通しもある。「アメリカでは、人工知能的なシステムを医療現場で規制しないための法案『MEDTECH Act.』が、来年の年初に可決すると言われています。そうなれば日本にも好影響を及ぼすのではと期待しています」(溝上氏)
日本IBMは今年2月からソフトバンクと提携し、ワトソンの日本語化を進めている。同社内でワトソンにかける期待は大きく、「ワトソンタイム」と呼ばれる時間軸で急速に開発を進めている。
千葉県南房総地域の基幹病院として、全国に先駆けて電子カルテを導入した亀田メディカルセンター。現在使用している電子カルテ「Kai」は1999年に導入したものだが、目下、近々カットオーバーする新システムの開発中だ。同センターCIOの中後淳氏はこう説明する。「従来の電子カルテは、紙情報の電子化がコンセプト。しかし、現在ではデータの共有や活用が課題になっています。Kaiはテキスト情報の集積でデータの解析には適しません。ですからシステムのコンセプト自体を抜本的に見直すことにしました」
新システムの名称は「AoLani」。ハワイ語で「青空を心地よく漂う雲」の意味だ。その名の通り、クラウドコンピューティング技術がベースになる。電子カルテシステムをクラウド上に置き、地域全体の医療機関が共有する構想だ。地域で同じシステムを使う意義について、中後氏はパソコンソフトに例えて解説する。「かつての文書作成ソフトは一太郎やオアシスなどさまざまで、データの変換が大変でした。しかし、ほとんどの人がWordを使うようになると文書のやりとりの手間が大幅に減りました。ユーザーが多いので、使い方に困っても、誰かに聞けばすぐにわかる。ユーザーの声に基づく改良もどんどん進みました」
本来、電子カルテも国レベルでシステムが統一されているのがベストだと中後氏はいう。だが現状では、ベンダー各社が異なるシステムを提供しているため、医療機関同士の情報共有は遅々として進まない。地域医療連携の足かせともいえる。「地域全体で効率的なチーム医療を実践するインフラとして、共有できる電子カルテが必要なのです」
AoLani開発の実務を担うのは、グループ内の亀田医療情報(株)だ。既存メーカーに頼らない分、フレキシブルに対応できる点が強みだ。「導入してからも、毎日、改良を積み重ねていけますから、時間がたてば必ず一番いいものになります」
現在は、現場の要望を募り、調整をしている段階だ。外来の医師からは、少ないクリック数などの操作性に関する要望が多く、病棟の医師からは代行入力の承認方法などについての意見が寄せられているそうだ。MacやiPhoneのように、マニュアルを読まなくてもわかる、直感的な操作性を期待する声もある。
導入は16年度初頭を予定。まずはグループ内の医療機関や、医師派遣などで密な連携をとっている病院から導入し、徐々に理解を募り地域内に広げていくつもりだ。
ドクターヘリを活用し、東京都諸島部など遠隔地の患者の受け入れにも積極的。
桜新町アーバンクリニックは、東京都世田谷区にある機能強化型在宅療養支援診療所だ。2009年に開設し、ITを使った情報連携で円滑な医療を提供している。院長の遠矢純一郎氏によると、在宅医療でもっとも難しいのは情報共有だという。「訪問看護師やホームヘルパー、ケアマネジャーなどは、それぞれが独立した事業所に属しています。同じ患者を診ていても、基本的に訪問時間は違いますから、まったく会わないこともある。積極的にコミュニケーションを取る努力が必要です」
一般的な在支診では、患者宅に置いた連携ノートに診療記録を書き込んで共有する。だが、緊急時も患者宅に出向かねば確認できず、24時間365日対応を難しくさせる一因となっている。そこで同院では診療記録をネット上で共有している。医師はボイスレコーダー等でその日の診療内容を録音し、看護師資格を持った在宅勤務の専任スタッフに電送する。音声は文字に起こされ、電子カルテシステム「おかえりくん」に記録。自動的にサマリーがアップデートされる。診療記録は職員がアクセスするクラウドサーバーに転送され、同時に地域医療連携システム「EIR」にも飛ぶ。ここがポイントだ。「ITを取り入れている在支診でも、電子カルテと地域連携システムが別で、両方に情報を入力しなければならない仕組みの場合が多い。しかし、当院では1日40~50件の往診があり、医師がそれだけのデスクワークをする時間がない。だから、セキュリティをかけたうえで、診療記録を直接EIRに流すことにしました」
EIRとは地域の訪問看護師や介護職が閲覧する掲示板のようなシステム。情報の伝え方も工夫している。「診療内容の録音では専門用語を避け、必要があれば介護の方へのメッセージも吹き込みます。さらに定期的に地域連携のメンバーを集めて勉強会を開き、協力関係を深めています」
このシステムを導入したことで、同院の医師のデスクワークが減り、診療にかけられる時間は50%も増したという。将来的には、他の在支診ともシステムを共有することを思い描いている。実現したあかつきには、在宅医療への新規参入増にも繋がり、地域の在宅医療体制はより充実していくと思われる。
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