医師の転職キャリアチェンジ特集
vol.10
埼玉県済生会
栗橋病院
※「ジャミックジャーナル」は2011年10月号より「ドクターズキャリア マンスリー」にリニューアルされました。
エキスパートDr.で ありながら名指導者。 ふたつの重要な 役割を担って いただいています |
最後まで診療の現場に 携わりたいと願い、 50代で キャリアチェンジを |
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外科 副担当部長 栗橋病院 副院長 |
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Hiroshi Honda 1979年弘前大学医学部卒。 東京女子医大腎臓病総合医療センター(第3)外科、埼玉県済生会栗橋病院外科部長等を経て2001年より現職。 現場から医療を考える勉強会NPO法人医療制度研究会の副理事長も務める。 |
Noriaki Kawano 1983年 鹿児島大学医学部卒業三井記念病院 外科レジデント 1988年 国立がんセンター中央病院 がん専門修練医 92年 国立がんセンター東病院 上部消化器外科 97年 新東京病院 外科部長 診療部長 緩和ケア委員会委員長 2009年 4月より現職 |
エキスパートDr.でありながら名指導者。ふたつの重要な役割を担っていただいています
今回お話頂いた医療施設側
外科 副担当部長
河野 至明 氏Noriaki Kawano1983年 鹿児島大学医学部卒業
三井記念病院 外科レジデント
1988年 国立がんセンター中央病院
がん専門修練医
92年 国立がんセンター東病院
上部消化器外科
97年 新東京病院
外科部長 診療部長
緩和ケア委員会委員長
2009年 4月より現職
最後まで診療の現場に携わりたいと願い、50代でキャリアチェンジを
今回お話頂いた医師
栗橋病院 副院長
本田 宏 氏Hiroshi Honda1979年弘前大学医学部卒。
東京女子医大腎臓病総合医療センター(第3)外科、埼玉県済生会栗橋病院外科部長等を経て2001年より現職。
現場から医療を考える勉強会NPO法人医療制度研究会の副理事長も務める。
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河野至明氏は、1983年に鹿児島大学医学部を卒業後、医局に所属せず、自分でレジデント先を選ぶという決断を下した。27年前には、これは大変珍しいケースだった。「同級生の中で、鹿児島大学の医局に入局しないのは、数人だけでした。私の決断の理由は、ポリクリ時に、10年目の医師が経験してきた手術件数を聞いて、その少なさに愕然としたためです」と、当時の強い決意を柔和な笑顔で語ってくれた。
河野氏は学生時代の長期休暇を使い、多くの病院を見学に訪れた。そのなかで、研修カリキュラムが充実していた三井記念病院を選び、外科レジデントとなった。5年間の勤務の間に、チーフレジデントとなり、若い医師の指導も行った。つぎに、がんを専門的に学ぶために、国立がんセンター中央病院にて、がん専門修練医となる。その後、国立がんセンター東病院を経て、97年より勤務した新東京病院では、心臓疾患をもった患者など、がんセンターでは扱わないリスクの高いがん患者の診療を行う。また、ここでは、外科部長を務め、がん以外の、消化器疾患や一般外科の手術も数多く手がけた。
2001年に、群馬県立がんセンターから、外科に力を入れたいので支援してほしいと要請を受ける。
「入職当初は、カンファレンスもほとんどなくて驚きました。築地のがんセンターで行われていたような術前検討、病理検討など、さまざまなカンファレンスを整備しました。また、積極的に学会で発表を行い、地域の開業医にもチーム医療をアピールしました」
その結果、年間60?70件だった胃がんの手術は2倍弱、大腸がんの手術にいたっては、2倍以上に増えるなど、素晴らしい実績を上げる。ただ、8年にわたって尽力を続けるうちに、医療局長になるなど管理職的な仕事の比率が増えてしまった。そのため、実際の診療を行える病院にうつろうと考えた。それなりの業績と実力があれば、就職先に困ることはない。それよりも、受け身なキャリアプランで、なにもできない医者になる不安のほうが強かった。
「転職先は、知人に紹介してもらうと断りにくくなります。義理を抜きにして、自分を最も活かせる病院を選ぶために、あえて転職会社を使いました」
条件は、専門分野である肝胆膵の手術をたくさん行えること。後輩を育てやすい環境であること。また、医師の本来業務に集中するためにも、事務作業のサポート体制が整っていること。
「栗橋病院には、若い先生に手術をまかせる風潮があることが気に入りました。また医療事務もしっかりしており、気持ちよく仕事ができます。クリニカルパスにのっているような基本的なことは、フォーマット化されています」
本田宏副院長のことはメディアを通じて知っていたという。
「お会いしてみて、思っていたとおり裏表がないフランクな性格で、現場のことをよくわかっている素晴らしい医師だと感じました。本田氏のもとであれば、安心して働けると感じたのも、栗橋病院に決めた理由の一つです」
ともに働いてからも、教えられることは多い。栗橋病院は、地域の基幹病院のため、救急の難しい症例が集まる。自分が経験していない症例について話を聞くことで追体験でき、勉強になる。
また、コメディカルも向上心が高い人が多い。ただ勉強をする場がまだ少なく、どう勉強していいかわからない人が多いことにも気づいたという。そこで、定期的に勉強会を開いている。
「ここではすぐに30〜40人集まるのがうれしいです。こちらもやる気になります」
以前から興味のあった緩和ケアにも熱心に取り組んでいる。各病棟をまわりがん疼痛などの悩みを抱えている人を診察する、緩和ケアラウンドも始めた。
「50歳を過ぎたら、臨床以外にも若手の指導や新たな仕組みづくりなどで、リーダーシップを発揮したいです」
多くの病院でさまざまな実績を残してきた河野氏の新たな挑戦は続く。
本田宏氏の河野氏への第一印象は、修練を積んできた、落ち着いた医師というものだった。「キャリアからも推察できますが、厳しい競争の世界で切磋琢磨をされてきたことがすぐにわかかりました」と、本田氏は語る。
コミュニケーション能力も高く、他の医師と患者との間で、トラブルになりかねない問題が発生したときには、間に入り解決を図ったこともある。
「客観的に問題をとらえ、誠意をもって対応してくださった結果です。また、当事者である医師にも上手に反省を促すなど、本当に見事な手腕でした」
肝胆膵のエキスパートドクターとしてはもちろん、地域医療に求められる外科治療、後進の指導まで、すべてを安心してまかせられる。河野氏のおかげで、病院全体の緩和ケアのレベルも上がったと感じている。患者に寄り添う立場の看護師らにも、安心感と希望を与え、モチベーションがあがった。
「緩和ケアのマネジメントや若手の指導をおまかせできることで、私も他の医師も、自分の仕事に集中することができます。その分、私も河野氏が少しでも働きやすい環境づくりを行わなければいけないと思っています」
河野氏に期待することは、サッカーでいえば、監督やコーチのような役割だという。以前は、その年代になると開業で病院を離れる医師が多かった。
「より安全性と専門性が要求されるようになった現代では、長年の経験を生かして、珍しい合併症や家族との接し方などを指導する医師が、現場には必要不可欠だと考えています」
行動力溢れる本田医師と、名指導者である河野医師のもと、栗橋病院から名プレイヤーたちが続々と誕生する日も近いだろう。(文:柳川圭子)
※当記事はジャミック・ジャーナル2010年2月号より転載されたものです
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