【寄稿】地域包括ケアとデザイン 第3回 病、人、民、国

studio-L代表
コミュニティデザイナー
社会福祉士
山崎 亮
1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院および東京大学大学院修了。博士(工学)。建築・ランドスケープ設計事務所を経て、2005年にstudio-Lを設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりのワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、市民参加型のパークマネジメントなどに関するプロジェクトが多い。著書に『コミュニティデザインの源流(太田出版)』、『縮充する日本(PHP新書)』、『地域ごはん日記(パイインターナショナル)』、『ケアするまちのデザイン(医学書院)』などがある。

山崎 亮氏 写真

フェイスブックグループ

フェイスブック上に「山崎亮のコミュニティデザイン部」というグループがある。NHKなど複数の番組でコミュニティデザインの取り組みを取材してくれたディレクターが管理人を務めるグループだ。彼自身、東京から鳥取県大山町に移住し、地域住民参加型の番組を制作しているコミュニティデザイナーである。

このグループは、コミュニティデザインに興味のある人たちが集うオンラインサロンのような場になるといいね、ということで始まった。有料会員を募ることも検討したが、月額料金を支払うことのできる人だけが集う場所にしたくないという気持ちが強く無料のままだ。管理人に支払うお金もないため、お互い趣味程度に関わることにしようと緩やかに続いているグループである。そんな緩いグループだが、ありがたいことに1700人以上がメンバーになってくれている。

趣味程度なので、気が向いた時にしか書き込まない。会費を頂いているわけではないので、こちらからの一方的な情報提供に勤しむ必要がない。グループに集う人たちがそれぞれ意見交換する場になるのが理想的である。とはいえ、大人数が集う場に書き込むのはちょっとした勇気が必要なのだろう。1週間に1つ書き込みがあるかどうか、という頻度でぼちぼち話題が生まれるという程度である。

つながりのなかの命

このグループに、自らを発達障がい者であると語る参加者がいる。その方は私と同世代であり、日常生活や人生にさまざまな不安があるという。一方で、いろいろなことに興味を持つ方であり、断続的に興味深い質問をグループに書き込んでくれる。この方の書き込みがグループにリズム感を生み出しており、私は勝手に感謝している。

先日、その方からグループに「なぜ命は大事なのでしょう」という質問が投げかけられた。ともすれば形骸化しがちな質問だが、コロナパンデミックの今だからこそ考えてみたい問いかけである。私は以下のように返信してみた。

「つながりがあるから命が大切なのでしょうね。もしつながりがなければ、命はその主体だけのものということになる。だとすれば、それをどう扱おうと主体の勝手です(主体と表現しているのは、それが人間であれ、他の動物であれ、植物であれ、昆虫であれ、同じことだと思うからですね)。でも実際にはつながりがある。つながりがあるから、命を大切にしないと、つながっている人たちが悲しむし、不利益を被る。そもそも他者(主に植物や動物)の命を頂いて己の命を保持しているのだから、奪った命とのつながりを考慮すればなおさら命は大切にしなければならない。そして、我々は、先祖から子孫までつながっています。つまり、命は歴史的にみても主体のものであって主体だけのものではない。我々は先代から引き継いだ命を子孫へつなげる存在。だから命を自分勝手に扱うわけにはいかない。大事なのです。コミュニティデザインに携わる人間として、僕はいつもそんなふうに考えていますね」

このやりとりに友人である癌の専門医が参加した。彼は癌患者を看るなかで、つながりと命の関係について考えることが多いという。だからこそ、医師は命だけに注視するのではなく、その人が持つつながりも勘案する必要があるというのだ。そのうえで、「小医は病をいやし、中医は地域をいやし、大医は国をいやす」という言葉を紹介してくれた。

社会医学

5世紀に書かれた医方書『小品方』には「上医は国を治し、中医は民を治し、下医は病を治す」という記述がある。それが、7世紀に書かれた『千金方』になると、少し言い換えられて「上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病を治す」と記された。ほとんど同じなのだが、中医が「民」ではなく「人」を治すことになっている。『千金方』は652年に刊行された書であり、その3年前まで唐の皇帝だったのは「太宗」と呼ばれた李世民。「民」という文字を使うと、「中医(並みの医師)は民(皇帝)を治す」という意味になりかねないので「人」に置き換えたといわれている。

偉大な皇帝の名を避けたのは賢明な判断だったとは思うが、「民を治す」と「人を治す」では意味が異なるように感じる。民のほうがつながりを感じる。個人を治すのではなく、地域を対象としているように感じる。これが原因だったわけではないだろうが、現在に至るまで医師は民や地域を看ず、人や病を注視するようになってしまった。中医ですらなくなってしまったといえよう。だからこそ、友人である癌の専門医が「中医は地域をいやす」と言い換えたことに力強さを感じたのである。

中川米造が紹介する「社会医学」も同様の視点を持つ。イアゴ・ガルドストンの著書『社会医学の意味』を訳した中川は、そのあとがきで個人だけではなく地域社会に目を向けることの大切さを説く。少し長いが以下に引用しておきたい。

「現代医学は、まず肉体から精神を切り離し、生活から神秘を捨てる合理的精神によって始められた。医者が病人において見るのは、肉体的な、生理的な異常や偏倚でしかない。医師は技術者として、その技術を売ることによって生計を立てる。かつて医師は、神父や司法官とともに、聖職とされた。また医は仁術であった。しかしながら、魂を否定した医術は、もはや合理性のみを基盤とする技術者とならざるを得ない。それでは病む個体の、感性的な救済への要請に応えることはできなくなる。また、病む個体の苦痛に共感を抱く社会の声に真に応え得なくなる。ここに、病者の主体性をも考慮に入れた技術が登場せざるを得なくなる理由がある。仁は、道徳的な要請ではなく、治療のための技術として合理的に変貌しなければならない。このような、非合理的な人間の主体性を、科学の名の下に提出し、実践的に解決しようとするもの、それが社会的ないし社会学的ということにほかならない」

けだし慧眼である。かつての医師は聖職であり、仁術を施す主体だった。人の感情、魂、地域社会の声に耳を傾け、その要請に応える存在だった。ところが、感情や魂や社会など、とらえどころのないものを非合理的なものだと決めつけ、合理的精神によって肉体的、生理的な異常のみを注視し、技術者としてそれを改善することに邁進するようになった。それではいかんのだ、というのが社会医学の立場だという。

そのとおりである。特に、地域包括ケアが必要とされる時代においては、合理的精神で病だけに注目し、それだけを扱おうというのでは物足りぬ。

地域包括ケア時代の医師

地域包括ケア時代の医療関係者に求められる視座は、革新的なものである必要はない。むしろ、最近は少し忘れられがちだった視点を呼び戻すだけで良い。私の周りにも、未だ病にしか興味のない医師がいる。かろうじて人に興味を示す医師もいるが、その人を取り巻く多様なつながりや地域のあり方も含めて「感性的な救済」に取り組む仁術が可能な医師は数えるほどしかいない。

それでは困るのだ。私も例外なく高齢化する。自分ごととして考えても、地域の多様な主体と豊かな交流を持ち、理性と感性のバランスを保ち、仁術を施してくれる医師が増えてくれないと困るのである。そのためのヒントは古典のなかにもあるし、フェイスブックグループで展開される対話のなかにもある。少し顔を上げて、病から目線を移し、人を見て、民と対話し、地域の未来に思いを馳せて欲しい。

参考文献
◦孫思邈「診候論(第1巻4章)」『千金方』、652年
◦イアゴ・ガルドストン(中川米造訳)『社会医学の意味』、法政大学出版局、1973年