【寄稿】地域包括ケアとデザイン 第2回 医療関係者によって伝えられた詩

studio-L代表
コミュニティデザイナー
社会福祉士
山崎 亮
1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院および東京大学大学院修了。博士(工学)。建築・ランドスケープ設計事務所を経て、2005年にstudio-Lを設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりのワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、市民参加型のパークマネジメントなどに関するプロジェクトが多い。著書に『コミュニティデザインの源流(太田出版)』、『縮充する日本(PHP新書)』、『地域ごはん日記(パイインターナショナル)』、『ケアするまちのデザイン(医学書院)』などがある。

山崎 亮氏 写真

『人々の中へ』

医療と地域づくりについて考えるとき、思い出される詩がある。『人々の中へ』と題する次のような詩だ。

「人々の中へ行き、人々の中に住み、人々を愛し、人々から学びなさい。人々が知っていることから始め、人々が持っているものの上に築くのだ。しかし、最も優れた指導者が仕事をしたときは、その仕事が終わったときに人々はこういうだろう。『我々がそれをやったのだ』と」。

作者は晏陽初(あんようしょ)という中国人だとされている。晏は平民教育に生涯を捧げた人なので、医療に特化した仕事をしたわけではない。ところが、日本ではこの詩が医療関係者によって紹介されることが多い。元をたどると、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)を通じてネパールの無医村に派遣され、のちに「ネパールの赤ひげ」と呼ばれた岩村昇が医師仲間に紹介したようだ。同じくJOCSの奨学生として学んでいた石川信克は、岩村からこの詩を紹介され、晏について調べ、詩の後段部分は老子の第17章から援用したものではないかと指摘している。晏も中華キリスト教青年会を通じて地域づくりに携わっていたことがあるので、キリスト教関連の活動者には伝わりやすい詩だったのかもしれない。また、地域医療に取り組む佐久総合病院の医師らからも同じ詩を紹介されたことがある。医療関係者が地域と関わろうと思うとき、参照したくなる詩なのだろう。

晏陽初

1890年に中国で生まれた晏は、14歳でキリスト教の洗礼を受ける。26歳でアメリカに渡り、大学で学ぶとともにヨーロッパの戦地で働く中国人労働者に識字教育を行う。このとき平民教育の重要性を実感し、1920年(30歳)に中国へ帰国した後は各地で平民教育を展開した。

晏の基本的な考え方は「民は国家の根本である。根本が強くなれば国家は安定する」というものだった。幼少期に学んだ『四書五経』の根本思想の影響もあるだろう。根本である民を強くするためには、平民の教育が重要になる。そこで、各地を歩き、平民が置かれている立場を調査した。

その結果、平民は「愚、貧、弱、私」という4つの課題を抱えていることがわかった。つまり、学びの機会がなく(愚)、生計を立てる方法が分からず(貧)、健康管理ができず虚弱であり(弱)、私利私欲のために動いてしまう(私)。これらを解決し、平民を強化するために、文芸、生計、衛生、公民の4つを学ぶことができる平民教育を進めた。目指す人物像は、「科学的な頭脳、自力更生の能力、健康な肉体、協力の精神」を持った中国人である。

当時の中国は人口の85%以上が農村で生活していた。そこで、晏は志を同じくする胡適(こてき)や陶行知(とうぎょうち)らと農村再建運動を展開し、各地で4種の教育を広げ続けた。農村を再建することが国家を安定させることである、というわけだ。

晏らがすべての講義を担当するのは難しい。そこで、最初に教育を受けた人たちが次の講師となり、講師もまた教えるために学ばなければならないという方法を開発した。これによって、教える側になった住民が学び続ける仕組みができ、平民教育は各地に広がっていった。

こうした経験から生まれたのが冒頭の詩である。実践の積み重ねから紡ぎ出された言葉だからこそ、地域医療に取り組む医師の心に響くのだろう。

ジョン・デューイ

晏がアメリカに留学していた青年時代、教育哲学者のジョン・デューイの理論が国内に広がった。「教育こそが民主主義をつくるものであり、国をつくるものである」。デューイの「教育救国論」は、晏の思想を後押ししたことだろう。晏が中国へ帰国する1年前の1919年、デューイは日本人の教え子たちに請われて来日し、新渡戸稲造邸に滞在しながら2ヶ月間ほど各地を講演して回った。その間、中国人の教え子たちにも訪中を請われ、急遽日本から中国へ渡航した。その後、デューイは思いもよらず2年2ヶ月間を中国で過ごし、晏の仲間でデューイの教え子でもある胡適や陶行知による案内によって講演の旅を続けた。

デューイは、五四運動で高まる反日感情を分析し、平民教育の大切さを講演で説いた。「抗日運動や反帝国主義運動が炎上するがごとく一気に盛り上がるのは、平民が生活に即した教育を受けていないからである。こうした状態に対応するためには、給料を増やしても仕事を減らしても意味がない。平民教育を普及させることが重要だ」。デューイの指摘は晏たちを勇気づけたことだろう。さらに「現在の中国の状況を鑑みれば、平民運動は農村から着手したほうがいい」というデューイの指摘も、晏たちの農村再建運動の方向性を定める助言だったはずだ。

昨今のインターネット上における炎上やデマの拡散について、デューイの言葉を借りれば「経済を成長させても、働き方を改革しても、ネットの炎上は終わらない。ネットリテラシーを高める平民教育が必要なのだ」ということになろう。ウイルスに対する知識や、日々の健康づくりについても同様のことがいえる。健康で長生きできる地域を実現するために、晏やデューイの言葉を語り継ぎたい。

冒頭の詩は晏の経験から生まれたものである。しかし、その経験にはデューイの思想が影響を与えている。地域医療に携わる者は、晏の経験から学ぶとともにデューイの哲学からも多くを学ぶことができるだろう。

なお、晏は1943年に「現代の革命的貢献をなした世界の偉人10人」に選ばれ、ニューヨークでアインシュタイン、ディズニー、フォード、デューイらと席を並べた。デューイとともに偉人として選ばれたことは晏にとって名誉なことだっただろう。

国際郷村改造学院

1949年、中華人民共和国が誕生すると、晏は中国共産党から追われる身となる。毛沢東は青年時代に平民教育運動のボランティア講師を担当したことがあるはずなのだが、結果的に晏は台湾を経由してアメリカへ移住した。その後、中国国内の新聞各社が晏や平民教育を批判する記事を続々と掲載し、帰国の道は潰えたように見えた。

以後、晏はアメリカを中心に中国以外のアジア各国で農村再建運動を展開した。1966年には、フィリピンに国際郷村改造学院(IIRR)が設立され、晏たちの運動の国際的な拠点となった。冒頭の岩村医師は、フィリピンのIIRRに掲げられていた詩をノートに書き写し、仲間に共有していたということである。それが心ある医師たちを通じて日本の医療業界に紹介されたというわけだ。

晏は1930年代に、日中戦争による日本の進軍によって農村再建運動を何度も追われている。そのこともあって、当時の講演では敵国日本について容赦なく非難している。このことが影響しているのかもしれないが、晏の功績に比べて日本での知名度は極めて低い。しかし、彼が実践から見つけ出した地域づくりのヒントは、現代を生きる我々にとって重要なことばかりだ。あいにく晏に関する情報は日本で入手しにくいが、地域の人々が学び合うための方法に興味のある方はぜひ探してみて欲しい。

当時は農村における識字率が低かったため、読み書きについての平民教育が必要だったが、現在ではインターネットのリテラシーを高めるような社会教育が求められているのかもしれない。地域の高齢者たちがZoomなどのWEBシステムで気軽にお茶会を開いたり、YouTubeなどで医療関係者の講話を聞いたり、SNSで興味のあることを発信するようになると、地域医療のあり方が少しずつ変わってくるように思える。デューイの言うとおり、金銭を配るのではなく手法を教えることが大切なのだ。まさに「お腹をすかせた人に魚を与えるのではなく、魚の獲り方を教えなさい」ということである。

フィリピンのIIRRは現在も活動している。何人かの日本人がここで研修を受けているし、視察に訪れる人たちもいるようだ。これからのIIRRがどんなことに取り組もうとしているのか、興味があるところである。

なお、故国へ戻る道が潰えたように見えた晏だが、1985年に多くの教え子たちの招きに応じて一時帰国を実現させている。95歳のことだ。1987年にも中国を訪れ、古い友人たちとの交流を楽しんだ。1990年、100歳になった晏は、次の中国行きを楽しみにしつつニューヨークで逝去した。

地域包括ケアは、医師などの専門職が連携すれば実現できるわけではない。そこには、地域住民の意識や態度の変容が不可欠である。そのためには、住民同士が自分たちの健康な暮らし方について学び合い、あるべき地域の未来像について語り合う必要がある。だからこそ、地域包括ケアに携わる医師にとって、晏やデューイの言葉や実践は大変参考になるはずだ。

参考文献
◦宋恩栄 編著、鎌田文彦 訳 「晏陽初-その平民教育と郷村建設」農山漁村文化協会、2000
◦田浦武雄『デューイとその時代』玉川大学出版部、1984
◦石川信克『「Go to the People」の源流を訪ねて』『国際保健医療』第27巻2号、2012