【寄稿】地域包括ケアとデザイン 第1回 地域を把握すること

studio-L代表
コミュニティデザイナー
社会福祉士
山崎 亮
1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院および東京大学大学院修了。博士(工学)。建築・ランドスケープ設計事務所を経て、2005年にstudio-Lを設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりのワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、市民参加型のパークマネジメントなどに関するプロジェクトが多い。
著書に『コミュニティデザインの源流(太田出版)』、『縮充する日本(PHP新書)』、『地域ごはん日記(パイインターナショナル)』、『ケアするまちをデザインする(医学書院)』などがある。

山崎 亮氏 写真

地域って何だ?

デザインの仕事に携わる私のような者にも、最近は「地域包括ケア」という言葉が頻繁に聞こえてくるようになった。もっともそれは、私が地域の人々とともにデザインを考える「コミュニティデザイン」という仕事に携わっているからなのかもしれない。そんな仕事をしているからこそ、「地域って何だろう?」と考えることが多い。「コミュニティ」という言葉がどんなつながりを意味するのかも気になる。地域包括ケアに携わろうとする医師は、誰とつながり何をすれば「地域」に関わることができると考えているのだろうか。以下では、とらえどころのない地域やコミュニティという概念について考えてみたい。

地域と聞いて町内会をイメージする人は減っている。町内会の加入率が100%近かった時代は「地域=町内会」でも問題なかった。ただし、町内会の加入者は概ね世帯主なので、概ね成人した男性が集まってものごとを決める。だから、頻繁に世帯内会議を行い、地域のあるべき未来像について語り合い、世帯主が配偶者や子どもの意見を正確に把握して町内会で代弁できるという状態が担保できているのであれば、「地域=町内会」と理解しても良い。

実際はどうか。世帯構成員の意見をしっかり把握できていると胸を張って言える世帯主がどれほどいるだろうか。都市部においては、夫婦の会話が1日15分以下である世帯が圧倒的に多いといわれている。世帯主は世帯の代表者として町内会に意見を届けられているのだろうか。

仮にそれができているとしても、町内会加入率は低下の一途を辿っている。都市部においては、町内会の加入率が50%を下回る地域も増えている。そう考えると、とても「地域=町内会」だとは思えない。したがって、地域包括ケアは町内会と連携すれば達成できると考えるのは難しいことがわかる。

変容するコミュニティ

同じ家に住んで生計を共にする人たちを世帯と呼ぶ。戦前までは、三世代が同居する大家族がひとつの世帯を構成することが多かった。仮にこれを世帯コミュニティと呼ぶ。近くには親戚が住んでいることも多かった。世帯コミュニティを取り囲む血縁コミュニティである。その外側には地域コミュニティが存在した。地域に住む人たちはみんな知り合いであり、町内会の加入率はほぼ100%だった。自分を中心にして、世帯コミュニティ、血縁コミュニティ、地域コミュニティと同心円状にコミュニティが広がっていた。暮らしも仕事も、ほぼこの3つの円のなかで完結していた。

高度経済成長期になると、都市部に人口が集中するようになる。肥大化する都市の辺縁部に郊外住宅地が誕生し、そこに住む家族は「核家族」と呼ばれた。そして多くの世帯主が都心部まで「通勤」することになった。このとき、3つの同心円は崩壊したといえよう。世帯コミュニティは核家族化し、血縁コミュニティは全国に散らばり、地域コミュニティは世帯主の通勤によって担い手が高齢者か女性になった。

しかし、年長者や男性を中心とする町内会の居心地は悪い。女性たちは町内会とは別に、趣味が近い人たちの集まりである趣味コミュニティを生み出した。全員が閲覧する回覧板ではなく、趣味の近い個人が直接つながることのできる電話の一般化によって、活動の日時を決められるようになったことが大きく影響しているだろう。一方、世帯主たちは通勤先の会社で職場コミュニティを生み出し、そこに飲み仲間などの趣味コミュニティを見出した。

その後、女性の社会進出が盛んになり、男女ともに昼間は通勤する世帯が増えた。こうなると加入率の低い町内会の担い手は高齢者ばかりになる。男女ともに通勤するのだから、育児や介護にも手が回らない。地域のことまで考える余裕がない、というわけだ。

2000年以降はインターネット、特にSNSでのやり取りが急速に増える。趣味コミュニティは地域の仲良しグループを超えて、日本中や世界中とつながることができるようになった。地域コミュニティの活動に参加しなくても、ネット上のつながりで十分に楽しむことができる。世帯コミュニティは、核家族から更に小規模化し、夫婦のみ世帯や単身世帯が増加した。男女ともに通勤は続き、地域コミュニティはますます高齢者の集まりに近づく。

見えないコミュニティ

地域コミュニティを取り巻く状況を歴史的な流れとして記述してみた。例外はあるだろう。ただし、多くの地域は前記のような流れを経験している。世帯コミュニティは小規模化し、血縁コミュニティは全国に離散し、地域コミュニティは高齢化し、趣味コミュニティは地域を超えてつながる。職場コミュニティは男女ともに拡大したが、最近では運動会や飲み会など職場の行事に参加したくないという若者が増えている。彼らは職場コミュニティとは別の趣味コミュニティに価値を見出す。

そんななかで登場した地域包括ケアシステムは、どうやって「地域」をつかもうとしているのか。町内会は地域の総意とはいえない。PTAや社会福祉協議会も地域コミュニティをどう捉えればいいのか分からない。誰に問い合わせれば地域とつながったことになるのか。ほとんど見えない。

趣味コミュニティが力を増していることはわかる。地域を超えてつながりを広げている。しかし、拡大する趣味コミュニティが有事のときにそれほど助け合えないことも分かっている。東日本大震災などの災害時は、趣味コミュニティにできることが少なかった。そもそもインターネットがつながらなかった。地域包括ケアの時代、趣味コミュニティの全国的な広がりに何が期待できるのか。

市町村の境界というのは人為的に引かれたものなので、生態学的な根拠はほとんどない。むしろ地形を読み取り、分水嶺で分けられる小流域で地域を捉えたほうがいい。河川が市町村の境界になっている場合が多いものの、本来は降った雨が集まってくる河川を地域の中心に据えたほうがいいはずだ。生物の遺伝子も、小流域内に多くの共通性が見いだされている。さまざまなつながりを考慮すると、市町村界の内側だけで地域包括ケアを完結できるとは思えない。

地域のつながりが見えない。代表的な組織があるわけでもなく、インターネット上のつながりまで含めて良いのかがわからず、市町村界を地域と捉える必然性も見つからない。そんな状態で、地域包括ケアをどう実現させればいいのか。

意味論的コミュニティ

2020年、新型コロナウイルスが世界的に流行した。感染拡大を防ぐために外出を自粛した人が多いだろう。自分が誰かに感染させないように、そして誰かから感染させられないように、緊急事態宣言中はなるべく自宅で過ごしたはずだ。

とはいえ、自宅にも他者がいる。世帯コミュニティである。最近ではシェアハウスなどで生活する人も多い。こうしたコミュニティは、緊急事態宣言中でも「濃厚接触」しながら暮らしてきた。

緊急事態宣言が解除されても、ウイルスが世の中から消えるわけではない。そんな状態で、誰に会いに行こうと思うだろうか。私は、自分と似たような価値観を持つ人となら安心して会える。不要不急の外出を避け、手洗いやうがいを徹底してきたであろう友人なら、同居人と同じくらい信頼できる。遠方に住む老親も、きっと同じくらい用心して暮らしたはずだ。今すぐにでも会いたい。

職場の仲間たち20人も価値観を共有している。彼らならウイルスへの対策も自粛の方法も自分と同種だったはずだ。安心して会うことができる。早く再会して、また面白いプロジェクトを実行したいものだ。緊急事態宣言前から通っていたカフェや料理店のオーナーにも会いたいと思える。そもそもしっかり衛生管理していると信頼しているからだ。その信頼感がなければ、彼らが作る料理を胃の中に入れようとは思えない。

そう考えると、緊急事態宣言の解除後に会いたいと思える人は、自分にとって安心感のある相手であり、信頼している相手であり、価値観を共有している相手だといえる。それが誰なのか。徐々に人とのつながりを取り戻していく過程において、それをじっくり観察しておきたい。最初の1週間で誰と会ったのか。1ヶ月間に誰と会いたいと思ったのか。この「会いたい」という気持ちのなかには、「会えなくて寂しかった」という感情と「ウイルス対策が同等だったろう」という信頼とが混ざり合っている。その気持ちをしっかり観察すれば、自分の周りに同心円のグラデーションが見えてくるはずだ。それこそが、かつての「3つの同心円」に代わるコミュニティなのかもしれない。それは空間論的な広がりではなく、自分にとっての意味論的な広がりであり、だからこそ他人には見えないコミュニティなのである。

地域包括ケアに携わろうとする医師は、「地域」を把握するためにも住民が持つ意味論的コミュニティをたどることが求められる。「緊急事態宣言が解除されたとき、あなたが会いに行った人を順に教えて下さい」という問いから、地域のつながりを把握し始める必要があるのかもしれない。