広がるPHRへの取り組み

PHR(Personal Health Record)とは、患者が自らの医療・健康情報を収集し一元的に保存するしくみで、それを医療機関に提供するなどして活用する。先駆けて導入した医療機関では医療の質の向上や業務の効率化も図られたという。今後広がるであろうPHR。現場の医師こそ利点をいち早く理解し、自らの医療に生かす時代が来ている。

  • 先駆事例より

地域全体で患者を診る体制で医療の質を向上
PHRを現場主導で導入し、成果を上げる

医療法人大和会
国分寺さくらクリニック
理事長・院長
村田光延
1991年弘前大学医学部卒業後、自治医科大学附属病院での内科初期研修を経て、1997年に同大学大学院医学研究科修了。Brigham and Women's Hospital:Harvard Medical School(アメリカ)に留学。2000年に帰国し、自治医科大学附属病院助手に。地域の総合病院での診療を経験後、2005年同大学医学部助手および同大学附属病院循環器センター病棟医長。2006年から同大学医学部講師。2011年国分寺さくらクリニック院長に就任。

村田光延氏 写真

理想の地域医療実現に必要な
患者情報の共有をPHRで

自治医科大学附属病院で循環器の診療や救急医療を担ってきた村田光延氏が、国分寺さくらクリニック(栃木県)で進めているのは、自らが理想とする地域医療の実現だ。そのためにPHRは欠かせないという。

「日本の地域医療もイギリスと同様にGP(General Practitioner)がゲートキーパーになり、患者さんの医療・健康情報を一元化するようなしくみが必要なはず。しかし電子カルテは2種類だけと共有しやすく、患者の情報はすべてクラウドで管理するEHR(Electronic Health Record)の実現などは、国営化したイギリスだからできることです」

村田氏は両国の医療での患者情報の扱いをこう比較する(図表1)。

「イギリスで一次医療を担うのはGPによるグループ診療で、患者さんは健康なときにそこでジェネラルチェックも受けており、医療・健康情報は自然に1カ所に集約されます」

二次医療、三次医療を目的に別の医療機関を紹介する場合も、GPから一括して情報提供すればよく、流れはさほど複雑にならない。

一方、日本は患者が専門医を探して受診するフリーアクセスが保証されている分、医療機関同士の連携が重要になるはずだが、それがうまく機能していない点が問題だという。

「しかもかかりつけ医は診療所に1人というケースも多く、厚生労働省が在宅療養支援診療所の条件に挙げる24時間365日の患者対応は非常に困難です。そこで地域連携を深め、患者さんの情報を共有するしくみ作りが急務で、そのツールとして私はPHRが最適だと考えています」

スマートフォンで撮る写真が
PHR活用のカギとなった

では村田氏はどのような場面でPHRの必要性を感じたのだろうか。

「例えば当院をかかりつけとする患者さんが、休日や夜間に救急病院を受診したとき、そこの医師に当院の医療情報を素早く提供し、適切な診断に役立ててほしいのです」

これまでは患者が別の医療機関に行く度に、同院から情報を提供していた。しかし発熱など軽症で夜間救急にかかるケースも多く、それならPHRを使って患者が医療情報を管理した方が効率的と考えたという。

「相手側の医師も、まったく知らない患者さんを診ることで感じるストレスを大幅に減らせるはずです」

また全体最適を優先するEHRは完成に時間がかかり、地域の実情にマッチしないことも考えられる。そうしたEHRのすき間を埋め、自在に情報共有できる点でも、PHRは活用範囲が広いと村田氏。

そこで同院では今すぐ実践できるPHRを検討した結果、多くの人が持ち歩くスマートフォンを使うことに。データは本人のスマートフォンで撮影した画像とするなど、クラウドや特定のアプリを使わないしくみを構築した(図表2)。

「検査の数値や心電図のような紙データも、X線の診断画像もただ撮影すればよく、医師が診断の参考とするには十分。当院を受診する度に撮影しておくと、時間経過による変化もわかるでしょう」

地域主導・現場主導で
今すぐできるPHRの導入を

こうした地域連携に加え、患者が健康をセルフマネジメントする、患者をリアルタイムに見守るといった活動にもPHRは効果的と村田氏。例として、同院が協力する自治医科大学附属病院総合診療部教授の小谷和彦氏による「KIT Study(国分寺IT臨床研究)」を挙げる(図表3)。これはPHRを患者のセルフマネジメントに役立てる臨床研究だ。

「健康情報などを記録するセルフレコーディングが、人の行動変容を促すことは知られていますが、デジタル化で記録が容易になり、続けやすくなる点にも期待しています」

さらに各人の情報に基づき、スマートフォンを介してチャットによる見守り・励ましの支援を行うなどPHRの可能性は広がっている。

加えて村田氏はPHRの活用で管理栄養士の負担は大幅に軽減できたといい、食事内容は患者が撮った画像で把握でき、聞き取りの時間が減って相談の時間が増え、指導内容も具体化したと評価する(図表4)。

「PHRは地域連携の円滑化などで、全員が楽をできる取り組み。かかりつけ医の適切な診断で医療の質の向上、医療費削減も期待できます」

今後、患者を地域全体で診ていく中で、患者の情報共有ツールとしてPHRは不可欠だと村田氏。

「政府の動きを待たず、地域主導・現場主導でPHRを導入した方が実現可能性は高いはず。それには医師自身も地域の課題を認識し、街のグランドデザインを検討するなど、地域と深く関わることが重要です」

栃木県下野市のクリニックで地域に密着した医療を実践
図表1 日英のクリニック診療の違い
図表2 患者がスマホでデータや画像を保管し持ち運ぶ
図表3 KIT Studyとは?
図表4 KIT Study結果:食事指導の内容(時間の割合)
図表1~4出典:村田氏提供資料
  • 最先端の研究者より

国が力を入れるPHRは急速に普及の見込み
患者が医療機関を選ぶ重要ポイントになる

東京慈恵会医科大学
先端医療情報技術研究講座/脳神経外科学講座
准教授
髙尾洋之
2001年東京慈恵会医科大学医学部卒業後、同大学脳神経外科学研修医を経て、同大学附属第三病院、同大学附属病院に勤務。2010年同大学臨床大学院脳神経外科学講座博士課程修了。2012年University of California, Los Angeles(アメリカ)神経放射線科に留学し、帰国後は2014年から厚生労働省医政局の医療技術情報推進室長補佐、同局経済課課長補佐なども務める。2015年から現職。IoTとスマートフォンを用いたICT医療研究に従事。

髙尾洋之氏 写真

個人情報保護法などにより
PHR推進の動きが顕著に

前述のような医療現場の動きも含めた日本のPHRの現状、今後の国の方向性、医師や医療機関はそれにどう対処すべきかなど、東京慈恵会医科大学准教授でICT医療研究に従事する髙尾洋之氏に聞いた。

「PHRは患者さんにどうやって情報を持ち歩いてもらうかが長年の課題で、近年ではクラウド上に情報を集約し、必要に応じて情報を取り出す方法が検討されてきました」

そうした医療・健康情報を集約した電子記録、さらに情報を活用するしくみをEHR(Electronic Health Record)と呼ぶが、集約には、医療機関などが持つ情報を一元化する、患者自身が情報を集める、という2つの方向性があると髙尾氏。

ただ2015年9月に成立した改正個人情報保護法により、病歴の提供に本人の同意が必要になるなど、前者は解決すべき課題が増えることになった。

「加えて医療機関同士の情報共有システムの構築、利用のコストもばかになりません。それなら個人の医療・健康情報は本人が管理し、持ち運ぶようにしようと、国もPHRに改めて注目したというのが現状です」

こうしてPHRが国の政策で重視されるようになった今、医師や医療機関はその考えや活用イメージを先んじて理解し、業務に役立てる準備を始めてほしいと髙尾氏。

「これからPHRのメリットを実感した患者さんは、自分の情報をうまく扱ってくれない医師や医療機関から離れていく可能性もあります」

自分の医療・健康情報を
情報銀行経由で自由に利用

そして今後PHRが普及するために、髙尾氏もまたスマートフォンが重要な役割を果たすという。

「多くの人が常に持ち歩き、ある程度セキュリティも担保した形で医療・健康情報が保存できるスマートフォンは、PHRの活用に非常に適したツールだと思います」

その活用イメージを髙尾氏がまとめたものが下図(図表5)だ。医療機関が持つ最新の医療・健康情報は、診療後に医師から患者のスマートフォンに直接移され、その時点で本人確認などの法的手続も終える。

「また医療機関のPCは外部のネットワークにつながっていないため、必要なデータや画像を医師のスマートフォンに移し、それをQRコード化して患者さんのスマートフォンで読み取るなどが考えられます」

患者の端末に保存されるが、髙尾氏はそれをクラウドにアップして長期間保存。医療機関への紹介状に使うほか、ウェアラブル端末と連携して健康状態を把握し、食事や運動など生活のアドバイスを通知するような利用も検討。このほか個人情報を伏せてビッグデータとして活用するなどの連携も可能だという。

「情報アップ時点で、個人情報をクラウドで活用する許諾を本人にとる流れにすれば、個人情報保護法の問題も解決できるでしょう。収集したデータはAIなどを使って解析し、その結果を研究機関、医療・福祉分野の企業などが、決められた条件のもとで活用することを考えています」

髙尾氏は情報銀行という概念を用い、銀行口座から自分のお金を振り込むように、保存した医療・健康情報は自己の所有物として、「紹介状を作る」など本人の指示で情報を簡単に利用できることを説明した。

「ポイントは患者さんが医療・健康情報を所有し、自分で使いみちを決める点で、それには各医療機関が使う電子カルテなど特定のプラットフォームに依存せず、病気や薬の種類といった必要な情報だけを持ち歩いてもらう仕様にすべきでしょう」

診療データを全国15大学で
共有するプロジェクトも進行

これに類似した考え方に基づき、髙尾氏は全国15大学50病院が参加し、患者の同意を得た診療データを共通のプラットフォームで共有するプロジェクトも進めている。また、アルム社と救命・救急補助スマートフォンアプリ「MySOS」を共同で開発。端末所有者の医療・健康情報を保存できる「マイカルテ」や「健康診断結果」の項目も設けるなど、PHRの普及に尽力している(図表6)。

「PHRによる情報共有に省庁や企業が取り組んでいますが、地域や特定のIDに紐付く情報に限定するなど、まだ道半ばの状況です。しかしいずれは情報を隠すよりオープンにする方が安心と患者さんが評価し、PHRが医療機関の在り方も変えていくでしょう」

図表5 スマホを利用したPHRと情報銀行のイメージ
出典:高尾氏著書『鉄腕アトムのような医師』内の資料より作図
図表6 PHRの具体例:スマホアプリで個人の医療・健康情報を管理し持ち運べる
出典:アルム社「MySOS」サイトより
  • 国のPHRへの取り組み

医療・健康情報の取り扱いの変化から
地域医療まで、多様な局面で進むPHRの進展

PHRは医療分野におけるICT活用の重要政策として、各省庁が取り組んでいる。下図(図表7)は厚生労働省「保健医療分野におけるICT活用推進懇談会 提言書」からで、レセプトやカルテといった収集可能なデータに加え、保健医療の質の向上などに役立つデータを「つくる」、個人一人ひとりを軸にデータを統合し「つなげる」、施設や行政に囲い込まれたデータを安全かつオープンに利用できるよう「ひらく」といった、医療・健康情報の取り扱いに対する方針転換が提言されている。

またAMED(国立研究開発法人 日本医療研究開発機構)のPHR利活用研究事業の一次公募で採択されたものとして、妊娠・出産・子育て支援(前橋市ほか)、疾病・介護予防(神戸市、名古屋市)、生活習慣病重症化予防(西宮市、多久市)、医療・介護連携(大月市)などがあり、今後の地域医療を支える各種テーマについて実践研究が進んでいる。

いずれも多様な医療・健康情報を集約した情報基盤を作り、本人が利活用する際はスマートフォン経由となる点は共通。国の政策でもスマートフォンを軸にPHRが進展することは間違いない。今後の広がりに注目したい。

図表7 厚生労働省が考える
次世代ヘルスケアマネジメントシステムのしくみ
出典:厚生労働省「ICTを活用した「次世代型保健医療システム」の構築に向けて」より抜粋