広がる産業医の役割

医師のキャリアの一つとして人気が高い産業医。近年は「働き方改革」により社会的にも同職の重要性が注目されているが、実は以前から産業構造や雇用形態のダイナミックな変化に伴って、産業医の業務は広がり続けている。そうした現状をよく理解せず、この仕事を目指してもうまくいかず、転職後もアンマッチが起きる可能性がある。そこで産業医の現在の役割と課題、望まれる姿について最前線を取材した。将来の参考にしてほしい。

  • 現状と課題

質の高い産業医へのニーズはさらに高まるが、
期待に応えられる有資格者は少数にとどまる

産業医科大学
産業生態科学研究所
教授
森 晃爾
1986年産業医科大学医学部卒業、1990年同大学院博士課程修了。労働衛生機関医、企業の専属産業医を務め、社内の産業衛生を統括する責任者も経験。2003年から産業医科大学産業医実務研修センター長として、産業医の専門教育に従事する。2012年より現職となり、産業保健経営学研究室で、企業を取り巻く環境や企業文化に適合した産業保健サービスの提供をテーマに研究を進めている。厚生労働省「産業医制度の在り方に関する検討会」メンバー。

森 晃爾 写真

産業医は質重視の時代へ
新たなチャンスが広がる

医師免許取得後に産業医を目指す場合、日本医師会または産業医科大学による研修を受け、それぞれが認定する産業医の資格を得るのが一般的だ。こうした産業医の有資格者数は現在約9万人といわれる。

一方、その受け皿となるのは産業医の選任義務を持つ労働者50人以上の事業場(図表1)。これら事業場の合計は16万4345カ所で選任率は87.0%となっている(出典:『産業医制度の在り方に関する検討会報告書・参考資料』)。

産業医の業務は健康診断の実施やその結果への対応、健康相談などが上位だが、現在3割前後のメンタルヘルスに関する相談や長時間労働者への面接指導などは、今後さらに重要になるのは間違いない(図表2)

そうした変化が進めば、産業医と事業場との単なる数合わせは意味を成さなくなるだろう、と産業医科大学教授の森晃爾氏は語る。

「すでに企業側は法律で必要な人数を揃えることから、何ができる産業医が必要かという質重視の時代に入っています。このため産業医の有資格者が9万人いるといっても、企業が期待する役割を担う人材を探すのは難しい状況です。逆にこれから本気で産業医を目指して頑張るという人には、活躍の場が大きく広がるチャンスとなるでしょう」

相談を待つのではなく
自ら課題を探るのが産業医

では産業医に何が求められているのかを具体的に見ていこう。まず2016年12月に厚生労働省がまとめた『産業医制度の在り方に関する検討会報告書』では、産業医活動の現状の一つに「多様化する労働者の健康確保対策」を挙げ、そのために産業医の権限強化など制度の見直しを提言している(図表3)

また、この報告書では過重労働による健康障害対策、メンタルヘルス対策、治療と職業生活の両立支援対策などが重点項目とされ、これらは「事業場における有害業務の有無等にかかわらず(中略)、職場の状況を把握した産業医が積極的に関与することが期待されている」と、健康障害が起こる前の予防に力を入れることが改めて強調されている。

検討会メンバーでもある森氏も、労働者の相談を待つタイプはこれからの産業医に向かないと断言する。

「健康指導というより、組織に内在する健康課題をいち早く見つけ、改善する戦略を立てて会社に実行させるマネジメント力。また、健康経営にコミットする力が求められています」

さらに産業医の役割は、『長く働けるよう支援する』ことであり、優先すべきは個人の問題より仕事の問題。本人が職場や業務に適応できる状態かどうかの判断が重要だという。

「その人の心身状態、働き方を確認し、このまま働いても問題がないのかなどを適切に判断できるのは産業医しかいません。また現状では働けないと判断した場合も、職場がどういう配慮や制限事項を設ければ働けるかなど、前向きに問題解決を図ることも、産業医の大切な業務です」

産業医で得た経験が
臨床の場で役立つことも多い

こうした産業医の職務を果たすには、学び続ける姿勢が重要だという。

「産業医の資格取得のために受ける50単位の教育内容は、ほんの入口部分に過ぎません。資格取得後も知識や実践力を高めるよう、常に研鑽を積むことが必要です」

産業医科大学でも産業医の実践力向上を目的とした研修を行っているが(図表4)、特にケースメソッドなどを通じて労働者の生活支援といった、産業医のスタンスを十分養ってほしい、と森氏は語る。

「中立的な立場がいいのではなく、産業医の軸足は『働くことの支援』だ、という点を再確認してほしいですね」

加えて産業医で得た経験は臨床の場で役立つことも多い、と森氏。

「医療機関で患者は“非日常”の状態ですが、職場の様子は真の日常生活。そこを知ることで、その人の生活背景に対する見方も広がります。これは臨床の場で患者への理解を深める助けになるはず。やる気のある臨床医の方は、もっと産業医にチャレンジしてほしいと思っています」

図表1 事業場における労働者数別の産業医の選任義務
労働者数 1~49人 50~999人 1000~3000人 3001人以上
産業医の
選任義務の別
医師等による
健康管理等
(努力義務)
産業医
(嘱託可※)
産業医(専属) 2人以上の
産業医(専属)
※ただし、有害業務に500人以上の労働者を従事させる事業場においては、専属の産業医の選任が必要。
「産業医制度の在り方に関する検討会報告書・参考資料」(厚生労働省)より
図表2 産業医が関与した業務の割合(全体)
「産業医制度の在り方に関する検討会報告書・参考資料」(厚生労働省)より
図表3 産業医制度の在り方に関する検討会・報告書ポイント

1産業医活動をめぐる現状

  • 過労死対策、メンタルヘルス対策、疾病・障害がある等の多様化する労働者の健康確保対策などが重要。
  • 産業医が対応すべき業務が増え、負担が過重。
  • 産業医選任義務のない50人未満の事業場における、医師による「健診・面接指導」の充実も課題。

2産業医制度の見直し

  • 長時間労働者の健康管理が的確に行われるよう、長時間労働者に関する情報を産業医に提供することを義務付け。
  • 健診の異常所見者について、就業上の措置等に関する意見具申が適切に行われるよう、労働者の業務内容に関する情報を産業医等に提供することを義務付け。
  • 健康診断や面接指導に加え、治療と職業生活の両立支援対策も産業医の重要な職務として明確に位置付け。
  • 事業者から産業医へ一定の情報が提供される場合について、産業医による職場巡視の頻度を変更可能とする。
  • 事業場の状況(規模、業種、業務内容等)に応じて、産業医、看護職、衛生管理者等の産業保健チームにより対応することが重要であり、具体的に取組方法等を示すこと。
平成28年12月26日労働基準局安全衛生部労働衛生課・厚生労働省HPより
図表4 平成29年度 産業医科大学 産業医学実践研修
プログラム番号 研修テーマ
プログラム 1 産業保健実務スキルアップセミナー
プログラム 2 産業保健プログラムの企画・実践力の向上のためのケースメソッド研修
プログラム 3 産業保健の統括マネジメント
プログラム 4 ワンランク上の労働衛生教育
プログラム 5 健康管理等の実地研修シリーズ
プログラム 6 使える!労働安全衛生マネジメントシステムの知識と活用法
プログラム 7 化学物質による健康障害を防止するための知識
プログラム 8 産業医に必要なメンタルヘルス対策のための基礎的研修
プログラム 9 産業医が知っておくべきセルフケア -一次予防を中心に-
プログラム 10 海外勤務者の産業保健活動
プログラム 11 ケースで学ぶメンタルヘルス不調者の支援に必要な労務および社会制度に関する知識と応用
プログラム 12 ストレスチェック制度の理解と運用
プログラム 13 治療と就業生活の両立支援
産業医科大学HPより
  • 現場より

臨床医と異なる、産業医の方法論を身につけ
経営層に施策を提言し、実行させる力が必要

ファームアンドブレイン有限会社
取締役
産業医科大学 産業衛生 教授
浜口伝博
1985年産業医科大学医学部卒業。(株)東芝、IBMで専属産業医として勤務。その間に全社の労働衛生を管理統括する安全保健センター産業医、統括産業医やアジアパシフィック産業医を歴任。日本産業衛生学会理事、日本産業精神保健学会理事、日本橋医師会理事、東京産業保健推進センター相談員なども担当。現在、ファームアンドブレインを設立し、産業医、労働衛生コンサルタント、産業保健コンサルタントとして活躍。

浜口伝博 写真

産業構造や雇用の変化で
必要な知識も役割も変わった

労働者の安全と健康に対する企業の義務を定め、産業医の業務を規定する労働安全衛生法(安衛法)の施行は1972年。その後、定期的に改正されてきたものの、施行時と今とでは産業構造が様変わりしている、とコメントするのは、多くの企業で産業医を務め、産業医科大学等で産業医育成にも携わる浜口伝博氏だ。

「例えば産業別就業者数の推移(図表1)の構成比を見ると、安衛法が施行された1972年は第三次産業が第二次産業を10数ポイント上回っていた程度。しかし2015年になると第三次産業は第二次産業の約3倍の割合となり、労働者の7割以上が流通、IT、サービスといった第三次産業に従事しています」

労働災害も施行当時に考えられていたフィジカルなものから、職場のストレスや人間関係などから生じるメンタルな問題、様々なハラスメントといったものまでに及んでいる。

そうした産業社会の変化と、産業医に求められる役割の変化を浜口氏がまとめたのが、産業社会と産業医学の変遷(図表2)だ。

「以前は人間の外側にあるエネルギーが健康を損ねないようにするハードパワー管理が主流でした。現在は長時間労働や人間関係、グローバル化をはじめ、人間に内在する諸問題を対象とするソフトパワー管理へと、産業医の取り組みも変わっているのです」

そうしたなかで、診療型の概念の産業医は、時代に合わなくなっているという。

「病院やクリニックの医師が産業医を目指す場合、現在の診療の延長上には産業医の仕事は存在しない点をぜひ理解してほしいですね」

企業に対する権限強化は
有能な産業医には追い風

臨床医と産業医の違いは何か。浜口氏は一人の患者を扱うのが前者、人や組織を動かし働く人の健康と安全快適を達成するのが後者だという。

「医療の知識は担当企業で健康に関する施策を練ったり、相手の相談を受けるときには必要ですが、産業医に期待されるものは診断でも治療でもありません。病気やけがによって『治療が必要な人』をつくらないために、どんな予防策や研修プログラムを用意すべきか、適切な人事施策をどう提案するかといったことが産業医本来の業務です」

しかし現状は、産業医の努力が結果にどうつながっているのか判断は難しいと浜口氏。

「健康診断での有所見率の推移(図表3)では、産業医の尽力で有所見率が下がったとの傾向は見られません。過労死についても高止まりしています」

こうした中でも産業医への期待は依然として高く、2017年6月に出された労働政策審議会建議「働き方改革実行計画を踏まえた今後の産業医・産業保健機能の強化について」では、産業医が行った勧告に対して、企業はその対応を適性に行うことなどが述べられている。

「建議で産業医の権限強化が図られていますが、そうした期待に応えられる産業医が十分いるのかは心許ないところもあります。ただポジティブに捉えれば、有能な産業医は自分の施策が実現しやすくなり、追い風の環境といえるでしょう」

健康経営への関与を通じて
企業の未来にも貢献できる

では産業医に求められる力を浜口氏はどう捉えているのだろうか。

「私は“5つのK”で話しています。まずは『会話する力』。労働者本人だけでなく、同僚、管理職、企業の経営層といった異なる階層たちとコミュニケーションがとれる能力です」

2つめの『規則する力』とは、改正が続く労働安全衛生法を熟知し、企業の実情に合った形で法を展開するよう指導できることだ。

「優先順位を設定して提案することも、実現可能性を高めるためには重要です。ただ、それには法律と職場の両方を十分知る必要があります」

加えて『科学する力』は、論理的な思考をもって、職場の問題点を抽出し、解決策を合理的な判断でまとめていく力。さらに『解決する力』は、前述の解決策を、組織や各人の行動ベースで施策を練り、実行させて解決すること。

「最後は『管理する力』で、実行された内容を文書や教育プログラムにすることで徹底すること。PCDAを回して改善を図ることです」

こう列挙すると臨床医と産業医に求められる力の違いが明確になる。だが浜口氏は、「医療が根本にある点は臨床医も産業医も同じで、違うのはその方法論だ」と強調する。

「人と組織を動かして目標を達成するという意味で、開業医の経営感覚と似ている面もあります。ですから、臨床医と並行して質の高い産業医を目指すことは十分可能だと思います」

産業医は経営層への提案などで健康経営に深く関与できる、と浜口氏。

「近年は経済産業省が選定する健康経営銘柄に入ると入社希望の学生が急増するといった傾向もあり、企業の現在、そして未来に貢献できる点も産業医の魅力と感じています」

図表1 産業別就業者数の推移
(注)1953~2016年の各年データ。産業負傷の就業者があるため構成比の合計は必ずしも100となっていない。
(掲載元)http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5240.html
(資料)総務省統計局「労働力調査」
図表2 産業社会と産業医学の変遷
浜口氏提供資料より作成
図表3 一般定期健康診断結果・主な項目別の有所見率の推移
厚生労働省「業務上疾病調」
図表4 産業医に求められる5K
K1 会話する力
K2 規則する力
K3 科学する力
K4 解決する力
K5 管理する力