VOL.79

「目の前の患者のために」
医師を目指したときの思いを
ミャンマーの大使館で実現した

在ミャンマー日本国大使館
医務官 猪瀬崇徳氏(41歳)

栃木県出身

2001年
群馬大学医学部卒業 同学部附属病院 第一外科(研修医)
2002年
原町赤十字病院 外科
2003年
群馬大学医学部附属病院 集中治療部および第一外科
2004年
伊勢崎市民病院 麻酔科/さいたま赤十字病院 外科
2005年
群馬大学大学院医学系研究科博士課程 入学
2009年
群馬県立心臓血管センター 外科医長
群馬大学大学院医学系研究科博士課程 修了
2011年
群馬大学医学部附属病院 第一外科 助教
2013年
株式会社イノセ 専務取締役
独立行政法人国立病院機構宇都宮病院 外科(非常勤)
2014年
外務省入省 在イエメン日本国大使館 一等書記官兼医務官
2015年
在ミャンマー日本国大使館 一等書記官兼医務官

志望学部の変更、専門分野の選択、母親の重病……。猪瀬崇徳氏が進んだ道は予定外の連続だったが、本人はそれを正面から受け止め、新たな未来を切り開く糧としてきた。以前は考えもしなかった外務省の医務官になり、現在はミャンマーの大使館での仕事が楽しくて仕方ないという猪瀬氏。これまで何を思い、どのような選択をしてきたのだろうか。

リクルートドクターズキャリア11月号掲載

BEFORE 転職前

専門だけにとらわれず
将来の選択肢をなるべく広く
それが外科医を選んだ理由

担任の勧めをきっかけに
工学部から医学部へ志望変更

自分の将来像は最初から一つに絞らず、なるべく多様な選択肢の中から選びたい。これまでそう考えて進路を決めてきたと猪瀬崇徳氏はいう。2014年に外務省に入省し、在ミャンマー日本国大使館の医務官となったのも、自分なりの指針に従ったからだ。

「日本国内で臨床に携わるという医師の一般的なイメージに縛られず、海外で働くという新たな経験の選択肢と捉えて外務省に応募したのです」

実は医学部を選んだのも、そうしたチャレンジの一つだったと猪瀬氏は高校時代を振り返る。

「一時は工学部を考えて大学のキャンパス見学にも行きましたが、どうも決め手に欠けていました。そんな様子を見かねた担任教員が、いっそ一生ものの資格を取って、手に職をつけたらどうかと医学部を勧めてくれました」

選択肢を広げるには、周囲のアドバイスに耳を傾けることも大切と考えていた猪瀬氏は、一生学ぶことができ、人の役にも立つ医学の魅力を再認識し、医師を目指す決意を固め、出身地の隣県にある群馬大学医学部の受験を決めた。

外科を専門に選んだのは
幅広い選択肢を残せるから

さらに医学部を卒業して専門分野を決めるときも、その後の選択肢がなるべく広がるように考えていたと猪瀬氏はいう。

「それには人体を広く学び、手技も身につく外科が向いていると思いました。また『目の前で倒れた患者を救う』手段を最も多く持つ医師を目指す上で外科は最適でした」

その後は群馬大学医学部の第一外科に入局し、医学部附属病院や市中病院などを経験。やがて外科の中でも狭い分野に特化しすぎず、比較的広い部位を扱うことから消化器外科を選んだ。

「このときも、ずっと消化器外科だけにこだわるということでなく、外科を中心に幅広い経験を積みたいという気持ちが強かったですね」

しかし30代になって多くの手術を経験し、猪瀬氏も消化器外科の医師として脂が乗り始めた頃。医局も現場の主力として期待を寄せていたのだろう。外科医長など役職に就くことも増え、さまざまな病院で休む間もないほど診療に明け暮れることになった。

今決断しないと一生後悔する
母親の病気で医局を離れた

そんな状況が一変したのは、猪瀬氏の母親が重い病気にかかり、闘病生活に入ったためだ。

「今、この時期に母に寄り添っていなければ、間違いなく一生後悔し続けると思い、医局の人事を離れようと決めたのです」

母親は建材会社を経営していたため、その扱いも含め、家族で時間をかけて相談したという猪瀬氏。

「これまでも患者さんには症例に応じて、治療のメリットやデメリットをなるべく正確にわかりやすくお伝えしてきました。ときには積極的な治療をしないという選択肢も含めて提示し、副作用に耐えて命を長らえる可能性にかけるのか、なるべく苦しまずに時間を過ごしたいのかなど、できる限り患者さんの希望に応じた選択肢を提示しようと心がけてきたのです」

自分の母親に対しても同様に接したと猪瀬氏。2013年3月で医局を辞した後、一時的に母親の会社の役員となって、業務の整理、以前から同社の業務を手伝ってくれていた親戚に会社を譲る手続きなどを進めたという。

「一方で週2・5日は複数の病院で非常勤に入っていたものの、ずっと二足のわらじを続ける中途半端さも感じていました」

医局に戻ることもできたが、それよりまったく違う環境で自分の力を試したいと考えた猪瀬氏は、医師免許を生かしてどのような仕事ができるかを検討したという。

「製薬会社などのほか、以前から何となく興味を持っていた行政の専門職も、医局を離れた今なら応募できるのだと気づきました」

中でも魅力的だったのは外務省の医務官。これまでにない経験ができそうだと期待して受けた猪瀬氏は、よほど向いていたのか筆記試験、面接に難なく合格した。

「その後、外務省から『イエメンでの勤務はどうか』と打診されたのでOKを出し、私の医務官としての人生がスタートしました」

AFTER 転職後

医学知識を持つ外交官として
在外公館内の業務のほか
現地での外交支援も行う

初めての医務官生活は
退避勧告も出たイエメン

外務省の医務官は大使館や総領事館など在外公館に赴任し、主に公館の職員と家族の健康管理を行っている。しかし猪瀬氏の最初の派遣先となった中東のイエメン共和国は特殊な状況で、それは現在も続いていると猪瀬氏は語る。

「国内の政情不安から、邦人には退避勧告が出されていました。医務官である私も大使館職員も外出は禁じられ、他の外国人も制限のある生活を送っていたようです」

そのためか、アメリカ大使館の医務官からメールで外科の症例を相談されたこともあったそうだ。

猪瀬氏自身も迷ったときは他国にいる外務省の医務官に尋ねていたという。その中で、メンタル面でのトラブルは深刻になる前に見つけ、早めにケアするようアドバイスをもらったと猪瀬氏。

「医務官は総合診療医でありつつ、産業医として職員と家族を含めた組織全体の健康も診ていく必要がある。こうした閉鎖空間ではそれを特に実感しましたね」

その後、2015年2月に現地大使館が一時閉鎖され、猪瀬氏はカタールに退避後、異動の発令を受けた。まさにこれまでにない経験で医務官生活の1年目を終えた。

ミャンマーの大使館では
外科の経験を生かす場面も

同年5月、猪瀬氏は次の派遣先となった在ミャンマー日本国大使館に着任した。現在、同大使館は職員とその家族で合計80人ほどがいる。

通常、猪瀬氏は大使館医務室に詰め、体調不良などの訴えを受けて適切に処置していく。ほとんどがコモンディジーズだが、何でも診る点では「目の前の患者を救うため」という医師を目指した気持ちに非常に近いと猪瀬氏。また簡単な縫合は自分で行うなど、外科の経験を生かせる場面も多い。

「あまり目立ちませんが、現地を訪れた要人に同行して健康面のケアをするなど、日本の外交の一部を担う役割もあります」

こうした間接的な国際貢献に加え、在留邦人の支援にも一役買っていると猪瀬氏はいう。

「ミャンマーは政権交代で今後の経済発展が期待され、仕事で訪れたり住んだりする日本人も増えています。法律の関係で私は直接診られませんが、在留邦人から健康相談を受け、現地の病院に付き添うことはよくありますね」

外務省における医療の専門家、あるいは医療の窓口のような立場のため、現地の警察や病院から医療の絡む邦人保護の要請が猪瀬氏宛に入ってくることも少なくない。

「本人が望み、派遣先の在外公館の上司から了解が得られれば、仕事の領域はもっと大きく広げられるでしょう。私はこの仕事が楽しくて仕方ありません」

多忙を極めた病院時代より
ゆっくりと過ごせる

このような海外での経験は医師としての診断力、人間力を磨いてくれると猪瀬氏は期待する。

「数年経って国内の診療に戻っても問題ないと思いますし、退職後の不安も感じません。医務官に興味がある人は、試しにしばらく経験してはどうでしょうか」

現在、猪瀬氏はミャンマーの日本大使館のほか、マレーシアの大使館と総領事館も巡回健診で担当している。しかし帰国の機会は予想した以上に多いのだという。

「定期的に長期休暇が取れる制度のほか、学会や研修などあらかじめ決まっている予定に合わせて、一時帰国することも可能です」

以前は多忙過ぎて、なかなか顔を出せなかった同窓会なども今なら出席できると猪瀬氏。

「同級生は『わざわざミャンマーから!』と感激してくれるので、悪いなとは思いますが(笑)」

現地で業務をサポートしてくれるベテラン医務官秘書のDr. Nwe Nwe Aung氏と。診察室にてミャンマーの民族衣装を着て。 画像

現地で業務をサポートしてくれるベテラン医務官秘書のDr. Nwe Nwe Aung氏と。診察室にてミャンマーの民族衣装を着て。

WELCOME

在外公館の外交を健康面から支える

総合診療の経験を積みながら
希少な症例を診る機会もある

総合診療医の知識と技能、加えて産業医や公衆衛生の素養も身につき、コミュニケーション能力も磨かれるだろう。自らもミャンマーをはじめ世界各地の在外公館を経験し、現在は外務省診療所の所長を務める仲本光一氏は、医務官の業務の幅広さをそう語る。

「医務官が主に診るのは公館職員やその家族で、その中にはお子さんまで含まれます。患者の絶対数は少ないのですが症状はさまざまで、国内の一般診療所に比べて感染症が多いことも特色でしょう」

こうした状況への対応として、医務官は国内外で総合診療(プライマリケア)研修、マラリア研修、救急医学研修、精神科救急研修、国際旅行医学会参加をはじめ数多くの研修が企画され知識のブラッシュアップを行っている。

「併せて公館全体の産業医的な役割も担っており、近年は職員同士の人間関係などメンタル面の健康管理も重要になっています」

幸い、現在100人を超える医務官の専門分野は外科から精神科まで多様で、必要に応じてメールや電話で医務官同士がコンタクトを取り、協力してサポートし合う体制が整っていると仲本氏。

「世界に広がる100人強の医局のようなもの。現地にいる医師は自分一人でも、心強いチームが世界中から支援してくれるのです」

さらに現地の最新の医療情報を収集し、日本に伝えることも医務官の重要な役割だという。

「そのためには現地病院や現地保健省などを積極的に回り、日頃から良好な関係を築いておくことが重要。これも医師として人間性が磨かれる経験になると思います」

また現地で国際医療に従事する日本人と日本の協力機関とのつなぎ役を果たし、国際貢献に間接的に携わるケースもあるようだ。

「現地を訪ねてきた政治家や芸術家と知り合う機会もありますね(笑)。私も『国内の医師ができない経験をしたい』と考えて外務省の医務官になりました。その意味では、オープンマインドで誰とでも付き合える人ならとても楽しめる仕事だと思います」

仲本光一氏

仲本光一
外務省診療所 所長
弘前大学医学部卒業後、横浜市立大学医学部第二外科学教室(現:消化器・腫瘍外科学)に入局し、外科医として神奈川県内の公立病院で勤務。1992年外務省入省。ミャンマーに始まり、アジア、アメリカ、アフリカなどの大使館・総領事館に医務官として勤務。邦人医療支援ネットワーク(ジャムズネット)等の設立に参画。2014年より現職。

在ミャンマー日本国大使館

猪瀬氏が勤務している在ミャンマー日本国大使館医務室は、世界各地にある104在外公館医務室の一つ。途上国にある、大使館や総領事館といった在外公館の多くに医務室が設置され、医務官(医師)が配属されている。基本業務は担当地域に勤務する公館職員とその家族の健康管理で、在留邦人に対する健康相談にも対応する。加えて現地の医療事情を積極的に調査し、病院の診療科や医療機器設置状況、現地で注意すべき感染症などの最新情報をまとめ、外務省のホームページに「世界の医療事情」として国民に提供する役割も担っている。また外務本省内(東京都千代田区)に診療所があり、医療職が配属され、外務省職員の健康管理、診療を行っている。

在ミャンマー日本国大使館

正式名称 在外公館医務室および外務省診療所
所在地 外務本省 東京都千代田区霞が関2-2-1
診療科目 一般診療
医務官数 107人
配置公館数 以下の104公館に医務官が配置されている
アジア・大洋州地域/23公館
アフリカ地域/34公館
中近東地域/12公館
北米・中南米地域/20公館
欧州地域/15公館
(2017年8月時点)