開業までの道のり| 開業 七転び八起き

※「ジャミックジャーナル」は2011年10月号より「ドクターズキャリア マンスリー」にリニューアルされました。

第1回

「開業までの道のり」

開業に至るまでの
長い道のり

「ようやく損益分岐点に到達しましたね」と税理士がうれしそうに語尾を上げました。地方の小都市に落下傘開業して約2年、ここに至るまでにこれほどの労力と時間を要するとは思いませんでした。

「うれしいというより、やっとか……」という呆然とした思いでした。

 今回、縁あって、開業してからの経験について連載を始めることになりました。本来ならば心のなかにしまっておきたい嫌な話もあります。しかし、これから開業される先生方、また開業してから私と同じような悩み、苦しみを抱えている先生方に、少しでもお役にたてればと思い、恥を忍んで執筆することにしました。

 新規開業にはたくさんの落とし穴があり、医師はやはり世間知らずで騙されやすいと思います。反面教師としてこの文章を読んでいただき、逆に開業が成功している先生方には、笑い飛ばしていただければよいと思います。

 今までの経緯と私自身の略歴につき簡単に説明したいと思います。

 私は40歳代の女性医師で、専門は消化器内科です。実家は地方の開業医(個人病院)でしたが、医学部在学中に父が交通事故で亡くなり、病院は閉院しました。以後開業することが私の夢となりました。首都圏の私立大学医学部を卒業後、実家近くの国立大学の内科医局に在籍しました。厳しい医局であり、学閥もあったので苦労はしましたが、粘り強さと打たれ強さを培えました。へき地の小規模病院から都市部の大病院まで幅広く勤務し、消化器内科だけでなく内科全般にわたりさまざまな経験をさせていただきました。この経験は開業してから本当に役立ちました。

 学位を取得し、開業を計画し始めましたが、兄弟間のトラブルや土地問題などで、いったん開業をあきらめました。医局との折り合いもよくなかったので、東京の個人病院に就職しました。東京で夫(医師ではなく国家公務員)と知り合い結婚。東京での開業も検討しましたが、夫の両親のことも気になり、夫の実家の近くで開業することにしました。

 開業を効率的に実現するため、コンサルタントを利用しました。以前から相談していた業者で、数年前に出かけた開業支援セミナー(建設会社主催)で紹介されました。

 彼らの仕事は診療圏調査、開業の計画、建築計画、資金調達、職員採用、開業の宣伝(看板、印刷物も含む)、各種届出、開院まで行うものでした。

 開業地は新幹線沿線となり、急速に発展してきている人口10万人程度の小都市です。総合病院が2ヵ所あり、個人病院・個人クリニックは人口に比べ多い印象があります。ここ数年は開業ラッシュと言われていました。夫の保有している土地は新幹線の駅からは遠いのですが、昔からの住宅地であり、近隣に中学校、高校、役所があり、比較的大きな道路に面していました。開業には適していると思いましたが、内科を標榜するクリニックが半径1?q以内に2ヵ所あり、ここが問題でした。

 その地域の医師会では既存のクリニックと競合しそうだと、新規開業は許可されないという噂がありました。コンサルタントと相談し、結局、開業3ヵ月前に医師会に挨拶にうかがいました。クリニックを建築する前に挨拶にうかがうのがルールだったようで、ていねいにお詫びをし、開業を許可していただきました。

 私が以前在籍していた東京都内の医師会では、開院1ヵ月前になっても挨拶のないクリニックがありましたが、特に問題にしていない様子でしたので、驚いたのを覚えています。

進む開業計画??
問題も勃発

 開業計画が進み、資金繰りを開始した後に義父ががんで倒れて亡くなりました。この時点で相続のために開業計画は半年ほど頓挫しました。夫も当初は東京へ通勤するつもりでしたが、義父が亡くなったため、早期退職して本格的に帰省し、クリニックの事務を手伝うことになりました。

 開業時は看護師2人、医療事務2人、事務長(夫)、院長と、スタッフは総勢6人。主な設備はX線検査装置(デジタル単純撮影のみ)、上部・下部内視鏡、超音波、心電計、電子カルテシステムなどでした。開院初日の患者数はわずか2人(そのうち1人は心不全のため、救急車で搬送)。落下傘とはいえ、厳しい船出でした。

 この地域では、2ヵ所の総合病院から患者さんを連れて開業する医師が多く、落下傘開業は少数派です。また地方独特の閉鎖的な環境もあり、なかなか患者さんは増えませんでした。夫の親戚とも連携はとれず、知り合いもいない孤独な生活でした。

 内視鏡検査や超音波診断も妥協せず最高の機材を用意したので、当初の想定より借金が多くなってしまいました。開業ローンも、リースも開業後3ヵ月後に引き落としが開始されます。夫の退職金、2人の貯金、運転資金の借り入れと十分な資金があったはずでしたが、当初の見込みより患者さんがあまりにも来ないため、資金がみるみるうちになくなっていきました。

 

 そこで始めたのが、土日当直のアルバイトです。

 当初は東京まで行っていましたが、体力的につらく、近隣の総合病院で週1回の外来を勤めるようになりました。それが地域住民の安心感につながったのか、また、女性医師であることも要因となったのか、特に女性の患者さんが来院するようになりました。さらに、すぐ近くに同じ出身大学の先生が院長を勤める個人病院があり、当直と月1回の外来勤務を行い、下部内視鏡検査の患者さんも紹介してもらえるようにもなりました。

さまざまな努力で
損益分岐点に到達

 予約がスムーズとの口コミで内視鏡検査も徐々に増え、肝臓専門医を取得していたため、インターフェロン治療の患者さんを総合病院から紹介してもらえるようにもなりました。プロペシア、プラセンタなどの自費診療も積極的に行いました。

 患者さんはゆっくりと増えていきましたが、次の問題はスタッフでした。

 開業後わずか半年でパートの事務員が退職。10ヵ月で看護師と事務員が対立し、事務員のほうが退職。その後、雇った事務員が同じ看護師と結託し、私に対し造反するようになりました。事務員を辞めさせたところ、仲間の看護師も退職し、新たに雇った看護師も3ヵ月で退職。看護師はその後落ち着きましたが、事務員は3ヵ月ごとに入退職を繰り返し、最近になってようやくよい事務員にめぐり会え、落ち着いています。

 宣伝活動としていろいろな会合に顔を出し、町おこしの会や商工会議所にも入会し、顔を売りました。仲間として受け入れていただき、協力してくださる方も出てくるようになりました。

  

 医師のくせにプライドがないと言われることもありましたが、お金がないので必死でした。つてを頼って地域の方向けの講演も行いました。いちばん大変なときは当直で土日が埋まり、半年以上はまったく休まず働いたのを思い出します。

 さまざまな努力の積み重ねで患者さんも自然に増え、1日30人を超えるようになりました。まさに死に物狂いで、なんとか到達した損益分岐点でした。

 次回からはテーマ別にポイントを絞って書きたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

※当記事はジャミック・ジャーナル2009年4月号より転載されたものです

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